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園長の日記

クリスマスディナー

2018/12/21

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毎年、クリスマスシーズンには、20時までの延長保育を利用する子どもたちのばんごはんが1日だけ豪華になります。

メニューは毎年決まっていて、“パセリごはん・タンシチュー・野菜たっぷりのタコのカルパッチョ・フライドチキン・いちごのホワイトドーム・シャンメリー”です。

今年はタンシチューが上出来で(20年以上、毎年作っているんですが、毎年なぜか出来不出来があるんです・・・)、作成者としても納得いく仕上がりになりました!

居残りの子どもたちもこの日を楽しみにしてくれていて、作り甲斐があります。

20時までというと、一般的にはかわいそうだと思われがちで、確かに居残りの子どもたちは遅くまで残ることに寂しさを感じる日もあります。でも、その感情をプラスにできることもあります。

「ごはんでつる!」(笑)

同じ時間を過ごすなら、「寂しさ」よりも「楽しさ」が上回ったほうが断然いいですよね。

毎日、居残りの子どもが「今日のばんごはん何?」と聞いてきます。

そこで生まれる会話で、居残りの時間が少しでも楽しいものに変わります。(特に子どもにとって好物のメニューの時は。)

そして、周囲の目は、「かわいそう」よりも「いいな~」に変わります。

そうすると、居残りの子どもたちはちょっと鼻高々になるわけです。

人はかわいそうと周囲に思われることで、「かわいそうな自分」を認識します。

これだけ価値観の多様性がある世の中で、何がかわいそうで何がかわいそうでないか、その基準も曖昧です。

結局は個人の価値観ですから。

「今日のばんごはん何?」という、何気ない日常の会話が、他の子どもたちにとっては羨ましく感じるものらしく、20時までの延長保育にあこがれる子どももいます。

ですので、年度末は、年長児さんに最後の思い出づくりの意味も込めて、20時までの延長保育を提案しています。

毎年度、ほとんどの子どもたちが最後の延長保育をわいわいきゃあきゃあしながら過ごしています。

ご案内

2018/11/29

第2回保育実践科学部会告知ポスターfinal[131]今年度の7月、東京大学で開催されました「第18回日本赤ちゃん学会学術集会」におきまして、予てより試案がありました学会内の保育部会が設立されました。

正式名称を、「日本赤ちゃん学会 保育実践科学部会」といいます。

部会の総括は、NTTコミュニケーションズ基礎研究の麦谷綾子氏が務められます。

未熟ながら、私が副総括を務めることとなっています。

保育実践科学部会は、その設立趣旨のひとつとして、研究者や現場、養成校などなどの垣根を越えて、「子ども」を多角的に捉え、かつ、科学的な根拠に基づいて共通理解を図り、多職種他業種によるダイバーシティにおける協調・協働を目指すことが挙げられます。

先般の東京大学での保育実践科学部会のワークショップでは、参加申し込み者多数となり、当初1回のみの予定を、急きょ翌日に2回目のWSの時間を設けるほど盛況な会となりました。

 

この度、第2回の保育実践科学部会を福岡にて行います。

参加は無料となっておりますので、ご興味のある方はぜひ足をお運びください。

お申し込みは添付データに記載のURLへアクセスいただくか、QRコードにて読み取るか、いずれかの方法で申し込みフォームにジャンプ後、必要事項を入力の上、送信ください。

参加者多数の場合は、翌日の午前中に予備日を設けています。

保育士不足

2018/11/22

相も変わらず、保育業界は保育士不足のようです。

幸い、当園は今年度は十分な人手に恵まれていますが、昨年度は保育士が不足していて、定員まで受け入れることができない状況でした。

保育士の不足は全国的なもので、国はありとあらゆる手だてて解消しようとしていますが、なかなか改善には向かいません。

今は、職業訓練でも保育士資格が取れるそうです。

毎年、保育士として社会に出る新卒者は数万人いるのですが、それと同等もしくはそれ以上に、保育士をやめてしまう人も数万人います。

待機児童の解消のために、ものすごい勢いで新園が建っていますから、その影響も大きいと思います。

国としては、今後、子どもの数が減り、保育士が余ってくると算段しているようですが、私はちょっと疑問に思います。

徐々に保育士養成校に進学する子どもの数そのものも減ってくるわけですし、そのうえ、今後、保育士や幼稚園教諭、小学校教諭の養成カリキュラムが改変され、より専門性が高い内容になります。

より専門性が求められるようになるわけですから、安易な気持ちで保育士になろうと思う人も減り、そもそも、人の役に立ちたい、子どもが好き、保護者の支援をしたい、と思うような心持の人が増えるとも思えません。

処遇の面でも、以前に比べてUPしたものの、まだまだ業務内容に見合ったものとは言い難い現状もあります。

そして、業務は年々増える一方です。

そんな状況で、保育士として勤めようとする人が余ってくるでしょか?

今現在、保育士として働いてる多くの人が(一部、犯罪などを犯してしまう人もいるので全員とは言えませんが)、給与や業務過多の状況よりも、「子どものために」との思いが強く、そういった人々の善意で保育現場が成り立っています。

だからといって、日々、保育の専門性を高めることに邁進していくことは大事ですから、今の保育現場ががんばっている、十分だとはもちろん思いません。

専門性が低い園や保育士が淘汰されていくことは仕方ないことだとも思います。

本来、専門性の高さが問われるのが、保育士という仕事です。

これまでは、割と簡単に資格取得もできていましたが、今後はそうとは言えなくなってくるでしょうね。

それを踏まえると、やっぱり、保育士が余ってくるとは到底思えないんですよね。

保育士資格を所持している人は、ごまんといるでしょうけどね。。

疲弊

2018/11/12

最近は、どこに行っても「人手不足」ですね。

ふらっと立ち寄った飲食店は、どこも従業員の募集があります。

コンビニでもそうです。

求人雑誌は年々分厚くなってますし、園には毎日毎日、保育士の人材派遣会社から電話があります。

保育士や介護士の人で不足は大々的にとりあげられていて、それだけみると、保育業界や介護業界だけが人材不足だと思いがちですが、日本全体どこも人手不足のようです。

人手が不足すると、サービスの質はどうしても落ちてしまいます。

質を落とさないように、と、現員で埋め合わせしようとしているのが、今の日本ですが、そのことが原因で、疲れ切ってしまっている人も増えています。

そうすると、せっかく今いる人も、何らかの病気などで退職や休職せざるをえない状況になり、ますます人手不足となってしまいます。

まさに負のループのできあがりです。

過剰なサービスに慣れきってしまっている日本人は、今後、苦境に立たされるでしょうね。

サービスがあって当たり前だと高をくくって生きている人たちは特に、です。

時代の趨勢に適応して、過剰なサービスは求めないようにしたいものでしたいものです。

せっかくの貴重な人材をこれ以上疲弊させたくないですしね。

日本は高度成長期以降、人を軽んじすぎてきたのかもしれません。

そういう教育を受けてきたんでしょうね。

乳幼児期の結果

2018/11/01

乳幼児期は人生の基盤を培う時期だと言われています。

その後の人生のすべてが決まる、ということではなく、その後の人生におけるあらゆることのベースが、一番効率的に身につく時期であるということです。

あくまでも「ベース」なので、何らかの形で確認することはそうそうできません。

いわゆる「結果」として、現れてくるのは、ずいぶんと先のことになります。

すぐ目の前にあるのが小学校ですから、小学校で困らないように、と目先のことばかりを考えがちになり、小学校がこうだから、小学校で困るから、と、乳幼児期に小学校と同じようなあり方を求めようとするおとなは多いですね。

育児世代のおとなが不安になるのはわかるのですが、びっくりするのが小学校や中学校の先生、同じ乳幼児期の保育教育に携わる人の一部でも、いまだに乳幼児期を「小学校の準備期間」としか捉えていない人がみられることです。

乳幼児期で培ったものが何らかの結果として現れるのは、おとなになってからです。

人間にとって、小学校や中学校が人生のゴールではありません。

その後の人生の方が何倍も長いのです。

ですから、かなり長期的な視点にたって、目の前の子どもがおとなになったときにどうなのか、を念頭においた保育教育が大事になってくるのですが、日本ではそういった専門的な視点で保育や教育を捉える人がまだまだ少ないですね。

 

少し前に、面白い記事を見ました。

もし、ビルゲイツ氏が日本で教育を受けていたら、どうだったか。

という仮定にたった記事でした。

そこでは、きっと今のビルゲイツ氏もマイクロソフトもないだろう、と結論付けてありましたが、私も同じように思います。

もし、ビルゲイツ氏が日本で育っていたら、まずは早い時期、乳幼児期に早々に、色分けされて療育などに通わされ、さっさと診断名をつけられ、その後は、型からはみ出る「困った子」として扱われ、心を折られ、不登校などになり、社会に出る時期になって社会に出ても、非効率で不合理さばかりで、無駄の多さで病んでしまう、という様なストーリーしか私には思い浮かびません。

ただ、早々に留学してしまってるでしょうね。

タイトルからずれてしまいましたが、「年齢」や「目に見えること」だけで子どもを判断するのではなく、その子の発達や特性、個性などに応じて教育を受けることができるような国になってほしいなと思います。そういった教育を受けることによって、自分なりの人生を歩んでくことができるようになるのではないかと思います。

おとなの役割

2018/09/01

子どもを育てるおとなの役割とはいったいどういったものでしょうか?

身の回りのお世話をすること?

生活のために働くこと?

いろんな知識を教えてあげること?

確かにそのどれもが大事ですね。

それ以外にも、大きな役割のひとつとして、子どもを一人の人間として認め尊重することも大事です。

我が子と言えども、自分とは違う人間であることを認めることが最優先事項ではないかと思います。

これがどうもうまく機能していないというか、子どもにやたらとおとなの理想と期待を押し付ける姿が目立つ気がするのですが、気のせいでしょうか?

人生を豊かに生き抜いてほしいと思うのは親ならば当然の心理です。

私たち保育者も同じ気持ちです。

だから、困らないようにあらゆる習い事などを経験させようとします。

しかし、子ども本人に、興味がなかったり、大きなストレスがかかっていたり、心の底から嫌がっていたり、そもそも向いていなかったりする状態にもかかわらず、おとなの思いだけで何かを強要することは、それは「子どものため」とは言えません。

そのおとなの思いが、曲者で、「自分が苦労したから」とか「自分はできなかったから」という理由が結構あると思うんですが、この理由はその心理は理解できますが、結果としてあまり子どものためにはなりにくい理由です。

というのも、自分と子どもは違う人間だからです。

自分とは、生きていく環境も時代背景も、関わる友だちやおとなも違います。そもそも違う人間なので、性格や個性も違います。

と、頭ではわかっていても、なかなか気持ちがついていかないのが人間です。

ですから、その心理はそのままに、ある一定の線引をしてほしいなと思います。

子どもに何かをさせたいなと思うとき、提案してみて、子どもが拒否したら、そこは一旦引いてみてください。

やり始めて、子どもの表情が曇っていたり、精神のバランスを崩したりしたら、一旦休憩してみてください。

やめたい、と言い出した時は、ちょっと休んでみて、子どもに考える猶予を与えてあげてください。

子どもは親を含めてまわりのおとなの期待に応えようと必死です。

大事なのは、おとなの評価ではなく、自分自身が楽しんで意欲的に関わっているかどうか、です。

この意欲的に関わること、自分からすすんで関わること、自分なりの意図をもって関わること、これらが先々の学びの力につながる基礎です。

評価されて嬉しいと感じるのは、子どももおとなも一緒です。

ですが、その評価は、人によって全然違います。

評価を基準にするのはダメとは思いませんが、それだけが基準になると、いつか疲れ果ててしまいます。

常に何かの見返りがないと安心しないようになってしまいます。

どうか、子どもに、子ども自身で決め、経験し、失敗し、その失敗を克服する機会を与えてあげてください。

そして、おとなは、その失敗を責めたりせず、失敗した辛さに共感しててあげてください。

失敗しないためにどうしたらいいのか、子どもが聞いて来たら、一緒に考えてください。決して、子どもが聞いてもいないのに、「こうやらないから失敗するんだ」と先回りしないで上げてください。

おとなから見れば、子どもは危なっかしく、何をしでかすかわかんない生き物かもしれません。

これだけは本当に困る、ということは、前もって伝えておき、約束事にしておいて、それ以外のことは、おとながぐっと我慢するのが、大人の役割ではないでしょうか。

私たち親世代も、お年寄りからあれこれ口うるさく言われたら、放っておいてくれ!ってなりますよね?

それと一緒です。

自分に置き換えて考えてみらどうでしょう?

自分がやろうと思うこと、やっていること、それを失敗して辛いとき、自分の親世代に話を聞いてもらえるだけで良くないですか?

アドバイスよりもほしいのは共感ではないですか?

アドバイスは求めたときだけで良くないですか?

そして、説教よりさりげないフォローがほしいと思いませんか?

困ったときにそっと助けてくれる、それが本当にほしいものではないですか?

困ったときに助けてくれる人がいれば、次の一歩を踏み出せませんか?

困ったときはその人にまた聞いてもらえるという安心感があると、前向きに取り組めませんか?

その気持ちが、子どもにとっても同様で、信頼できる人との関係性を基礎にして、自分の世界を広げていくわけです。

これがいわゆる「アタッチメント」であり、人間が生きていくための基礎になる部分のひとつです。

生きる力

2018/08/01

10年前は、社会に適応できない大人が増えてきたことや、引きこもり、ニート、自殺者などの増加から、子どもたちに「生きる力」をつけていこうと、あらゆる場面でこの「生きる力」という言葉を目にしていました。

現在も変わらず、日本においては、この力が重要視されていることに変わりはないのですが、近年は、様々な災害の問題、AIの台頭、ヒトの在り方の変化などなどから、「未来を生き抜く力」を子どもたちにつけていこうという流れになっています。

特に、これから先の未来は、予測がつかないことばかりです。まぁ、もともと未来の予測はできないんですが、優秀なエコノミストやトレーダーなどは、その分析力によってある程度の予測は可能だといいます。そういった専門家をもってしても、今後の見通しは大変持ちにくいらしいです。

そこで、今からを生きていく子どもたちには、どんな未来が待っていても、それを乗り越えていく力を身につけてほしい、と思うのは、子どもを思う大人ならば誰もが感じることですね。

では、どうやって乗り越えていくかと言えば、それは一人では到底無理なわけです。

だから、他人と協力していくことが大事になるんですね。

この「協力」も、日本的な教育では、「みんななかよく」とかに見られるように、なんとも曖昧で、表面的な仲良しごっこを求めるようなことしか教わってきてません。

協力とは、単なる表面的な仲良しごっこではなく、それぞれが役割を担って、役割分担によって互いに補い合いながら、目標に取り組んでいくこと、です。

これまでの日本の教育は、「いかに平均的な子どもをつくっていくか」に重点を置かれていて、かつ、「いかにコンピュータのように正確な知識を持ちうるか」に力を注いできていました。

そこから徐々にシフトチェンジし、「生きる力」がブームの時は、「コミュニケーション能力」に重点を置かれ、そして、今、「未来を生き抜く力」へとつながったわけです。

新しい保育所保育指針では、その力のひとつとして、例えば、「葛藤やつまづきを乗り越える」ことで、次第に身につくものであると表記されています。(これ以外の表記もあります)

これには、ともだち関係など人との関わりだけでなく、身体的な病気やケガなども含まれます。

子どもが小さいうちは、少しのケガにも敏感になり、大人は慌ててしまいがちです。心配のあまり、ケガや病気をさせまいと、やたら無菌にしたり、ケガを未然に防ぐことばかりに力を注いだりしがちです。

確かに、大きな障害が残るようなものや、命に関わるものならば未然に防ぐことが大事です。

しかし、やりすぎてしまうと、守っているつもりが逆に、危険を回避する能力や病気に対する抵抗力を奪ってしまうことになってしまいます。

ですから、多少の失敗は、先々のための必須経験と捉える長期的な視点が重要になってきます。

どうもこの長期的な視点が、現代人には足りない気がします。

目の前のことだけしか考えられず、目の前の事象がどうつながっていくのか、といった想像力に欠けると言いますか、自分の感情が最優先で、自分の行動や発言が、その後どうつながって、どう影響するか、先の見通しをもたずに衝動的に行動するおとなが目立ちます。

対して、今の子どもたちは、結構しっかりしているな、と感心することが多くあります。

受けてきた教育の差によるところが大きいのでしょうね。

そう考えると、おとなの役割とはいったいどういうものでしょうね。

呪縛

2018/07/02

ちょっと刺激的なタイトルになってしまいました(笑)。

前回、団塊の世代うんぬんと書いたんですが、それには理由があります。

今の世の中は、過去の教育などの結果であるからです。

過去の教育の結果が、今出てるわけですから、今の大人たちがやたらと自分のことばかりだったり、他者理解に欠けていたり、格差社会になってしまったり、子どもを大事にできない、子どもの人権を認めない、子どもを大人の所有物とみなすなどの育児観を定着させたのは、前時代の人々です。

その前時代の人々から育てられた現在の大人は、自分がされたことを同じように今の子どもたちにします。

「毒親」という言葉も生まれていますが、毒親と言われる人々は、きっと、その親も毒親と言われる人だった可能性が高いですね。

負のスパイラルです。

今の世の中の保護者の状況って、まるで前時代の毒親からの呪縛で苦しんでいる様にも見えるんですね。

毒親の元で育ってしまって、自分らしさを出せないまま、義務的に育児をやっていたり、人生そのものが親の呪縛でがんじがらめにされていたり。

もちろん、親への尊敬や感謝もどんな家庭にもあってしかるべきですが、価値観や生き方は、いくら親であっても、違う人間ですから、親の価値観やしつけが、子どもの個性に合わないものだったら、それはもう呪縛への第1歩でしょうね。

人としての道は、子どもに伝えていくべきものと思いますが、負の遺産のようなものはどこかで捨ててしまいたいですね。

負のスパイラルをどこかで止めないと、延々と続いてしまいます。

止めるには、親だけの努力ではどうにもできないことがほとんどです。

先日の虐待による子どもの死亡事件も同じではないでしょうか。

 

 

神経発達症と犯罪

2018/06/28

最近の事件は、犯人の病歴なども報道されています。

よく目にするのが、犯人は発達障害だった、という記事です。

そこから飛躍して、発達障害者は犯罪者になりやすい、という流れも目立ちます。

発達障害者の犯罪率は、健常と言われる人たちの犯罪率と変わらない、とも言われていますし、発達障害と犯罪には相関性があるともいわれていて、はっきりとしていません。

ただ、これはあくまでも私見ですけども、発達障害は環境の影響を大きく受けます。

簡単に言うと、感受性が強いわけですから、おかれる環境によっては悪にも善にもなるのではないでしょうか。

いろいろな事件が起こるたびに、犯人の成育歴が気になります。どんな環境で育ってきたのか、その環境が知りたいと思います。

あくまでも予測でしかありませんが、犯人になってしまうまでの人生で、理解してくれる人や共感してくれる人の存在が少なかったのかもしれません。

といっても、安直に「親が悪い」と決めつけるのはこれまた横暴です。

確かに、子どもの一番の保護者は親ですが、育児の不得手も人それぞれですし、もしかすると、親にだって、上手に育児ができない何らかの特性がある可能性もありますしね。

育児が上手じゃない親だって、一生懸命やっているわけです。

一生懸命なんだけど、結果が追い付かない、誤解されてしまう。

そもそも子どもは、親だけが育てるものではありません。

多様な大人の中で、子どもの中で、育っていくものです。

色々な価値観に触れながら、大人になっていくわけです。

いつからこんな親だけが育てる風潮が強い世の中になったんでしょうね??

個人的には団塊の世代がいろいろやらかしてしまった結果で苦しんでいると思ってますけど(笑)

※団塊の世代の皆さん、すみません!!

Disorder

2018/06/08

いわゆる発達障害は、英語表記で“Diveropmental disorders”と記されます。

このdisorderが、日本で訳されたときに「障害」となったわけですが、近年の発達障害の研究の進化と共に、「障害」では誤謬があるのでは?との議論がなされています。

もともとヒトの発達には、個体差がかなりあり、また、発達そのものの凸凹も、誰もが持っているものです。

例えば、運動が得意な人が勉強が苦手だったり、算数は得意だけど英語は苦手だったりと、人それぞれ得意不得意があります。

その凸凹の具合があまりにも極端だったり、社会生活を営む上で大きな支障が出る際に、発達障害だと診断されるのですが、その線引きは難しいものです。

線引きが難しいものなのに、方や健常者、方や障害者、というのは、ちょっとどうかと思いますよね。

それは多くのドクターも感じていたことのようで、上記のような議論がなされはじめたわけです。

そこで、障害ではなく、症状としてとらえるべきでは?ということで、発達障害ではなく、神経発達症、との訳語が定着しつつあります。

そもそも発達障害は、脳神経の伝達物質の伝達異常などによるものですので、神経発達にちょっと不具合がある症状、という意味の神経発達症の方が実際しっくりきますね。

最近の猫も杓子も発達障害という風潮は、理解が進むことにもつながっているのでしょうが、様々な現場で安易に発達障害と決めつけるような動きも目立っています。

ほんと、日本人はカテゴライズするのが好きだな~と思う今日この頃です。

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