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子どもエッセイ

嫉妬

2012/07/15

子どもが喜怒哀楽を表現するとき、様々な感情を表すことがあります。

その方法は、それぞれですが、豊かに表現するために、声が大きくなったり、激しい感情表現になってしまうこともよくあります。

これらは、社会という大きな世界の中で、TPOをわきまえて行動しなければ他人に迷惑かかるということを学ぶための第1歩でもあり、他人の気持ちを受け入れるための第1歩でもあります。

例えば、嬉しいときに思う存分友だちと騒ぎあったり、悲しいときに大きな声で泣き喚いたり、そういった子どもの感情表現を、おとなは五月蝿く感じます。

おとなは社会の中で自分の感情表現を大きく表すと、他人に迷惑がかかってしまうかもしれないということを理解していますので、子どものこういった姿を五月蝿く感じがちです。

ただ、五月蝿く感じるだけでなく、それを押さえつけようとするおとながいます。

ロンドンの子どものメンタルヘルスセンター(CCMH)代表であり、児童カウンセラー・スーパーバイザー・トレーナー・心理療法家であるマーゴット・サンダーランドは、自身の著書の中で、こう書いています。

 

「子どもが十全に生きていること、幅広い感情を備え、それを自分から情熱的に(時には大声で)表現したがっていることをわきまえて子どもに対処することができない親や教師もなかにはいます。なぜなら、そういう親や教師は、自分達の弱い感情に比べて、子どもの感情の豊かさが過剰すぎると思うからです。彼ら自身の子ども時代には、興奮や怒り、講義といった激しい感情のあり方は許されず、何も反応してもらえないか、恥ずかしい(あるいは恐ろしい)思いをさせられるしかありませんでした」

「(中略)このようなおとなにとって、自分が抑えつけてきた感情を子どもが生き生きと、表現する様子を目にするのは非常につらいことです。したがって、表現の豊かな子どもは、親や教師に嫉妬(通常は無意識のものであり、当人は否定しますが)を起こさせることがあります。その結果、親や教師は、子どもの自然で情熱的な感情表現を良くない事だと決めつけ、理由付けをしようとしはじめるのです。そして、歓喜のあまりに叫ぶことや、喜びあまってジャンプすること、大きな声をあげて泣くことや激怒することは“悪いこと”であり、“秩序を乱すもの”で“近所迷惑”“興奮しすぎ”だとみなされ、“すぐにやめさせなかったら、自分はダメな親(教師)だ”という結論を導き出します。このようなおとなには、自分自身が押し殺してきた情熱のすべてを子どもに認めさせることはあまりにも恐ろしく思われます。子どもを批判し、あざけり、辱めて、子どもに、自分はやかましく多動で制御がきかない子だと思わせるのが“この子にとっていちばん良い”と考えるほうがずっと簡単なことなのです」

 

いかがでしょうか?

私はこの行を呼んで、ハッと気づかされました。

子どもの豊かな感情表現はそのまま生命力といえます。その生命力を否定することは、人間らしく生きていくことそのものを否定することにつながります。

感情があるからこその人間なのに、その感情を押し殺すことを教えるのがおとなの役割なのでしょうか?

自分の感情を受け止められ、共感してもらうからこそ、自分以外の他人の感情にも受容しようとする気持ちが芽生え、そこから思いやりが生まれてくるのではないのでしょうか。

おとなの嫉妬に振り回されていては、子どももたまったもんじゃありませんね。

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