MENU CLOSE

2017年 3月

2029

2017/03/31

これからを生きていく子どもたちは、それぞれに未来が待っています。

人類の歴史を紐解いていくと、人類はすさまじい進化を見せていますが、地球の歴史からすればそれはほんの少しの期間でしかありません。

これからの人類の歴史を担っていく子どもたちには、どんな未来が待っているのでしょうか。

子どもたちが大人になる頃、地球はどうなっているのでしょう。

人類はどうなっているのでしょう。

未来のことは誰にもみえません。

ある程度の予想や予測はつくものの、それはあくまでも予想や予測であって、真実ではありません。

急速に進化を遂げている人工知能や地球温暖化、IPS細胞などの再生医療や遺伝子工学などなど、人類は叡智の極みを生きている気がしますが、それでもまだすべてを解き明かしているわけではありません。

よく「脳科学的に」といった文言が見聞きされますが、ヒトの脳だって、解明されている部分はほんの数パーセント程度のものです。

これから人類が迎えていく新しい時代に対して、様々な専門家がそれぞれの専門分野からの知見を述べています。

警鐘を鳴らしている専門家もいれば、未来へ希望を持つ専門家もいます。

どちらが正しいかは、その時代になってみないとわかり得ません。

タイトルの2029は、人工知能がヒトと同程度の知性をもつと言われている年です。

2029年までに、ヒトの脳と人工知能が融合し、ヒトの脳もクラウド化できるというのです。(Google社のレイ・カーツワイル氏)

そして、2045年には、人工知能はヒトの知性を超えるといわれています。

2029年は、今の子どもたちが、ちょうど高校を卒業し、社会に出始める頃です。

その頃には、ヒトの脳に人工知能が埋め込まれ、ヒトの力がより強大になると言います。

あくまでも予測の範囲ですから、絶対にそうなるわけではありませんが、いずれにしても、人工知能の発達は、ヒトの発達とは比べ物にならないくらいの速度ですから、当たらずも遠からず、くらいには認識しておいた方がいい情報かもしれません。

ちなみに、先ほど、発達の速度について触れましたが、例えば、ヒトの発達が1⇒2⇒3・・・と順番に発達していくのに対し、人工知能は、1⇒2⇒4⇒16・・・と発達していきますから、速度は比較にならないくらいのものになります。(たとえです)

 

ヒトの脳で解明できている部分が数パーセントしかないのが現状ですが、これがAIの手にかかれば、その解析は爆発的なスピードになるのかもしれません。

それを見越しての、ヒトの脳とAIの融合なのでしょうね。

今はまだウェアラブルによってヒトとAIとは完全に融合とまではいかないもののある程度の一体化ができています。

ウェアラブルを経て、進化したものが脳内チップといった感じでしょうか。

これだけ見ると、??????となられるかもしれませんが、ウェアラブルは今では誰もが身近に持っていると思います。

例えば、スマホの歩数機能などもウェアラブルといえばそうですね。

私はブレスレット型のウェアラブルをこの数年使っていますが、それは1日の歩数と消費カロリー、睡眠時間を付けているだけで勝手に計測してくれるものです。

スマホのアプリと連動させて記録、という流れです。

これが、より進んで、スマホを立ち上げなくても、脳内チップと連動して、クラウドに保存され、見たい時に見れる、といった流れになっていくのでしょうね。

脳内チップといきなり聞くとビックリするだけですが、いきなりそこにいくわけではなく、すでに前段階は人類が使用していて、より進化した形と捉えることができると思います。

個人的にはAIとの連動には怖さがありますが、時代の流れと共に、脳内チップが当たり前の時代になっていくのかもしれません。

ヒトは年を取れば取るほど、脳が固くなり、新しいものや変化に対して恐怖を感じやすい生き物です。

2029年には私も還暦が近くなっていますし、変化や新しいものに対して怖さを感じるんでしょうね。

ただ、今の子どもたちは、まだまだ未成年。

変化にも新しいものにも柔軟に対応してくれることでしょう。

そして、新しい時代を担っていってくれることと信じています。

卒園シーズン

2017/03/24

今年度も残すところあとわずかとなりました。

毎年この季節になると、春の訪れや新年度への期待と喜びだけでなく、今年度の終わりを感じます。

毎年毎年、卒園児が園を旅立っていくわけですが、これがなんとも寂しいんですよね。

それぞれの子どもたちには未来があって、これから就学してそれぞれの人生を歩んでいくわけですから、喜ばしいことであることは間違いないのですが、いなくなってしまう寂しさは何とも言いようがありません。

一緒に過ごした時間が、卒園式のあの短い時間の中で、一気に思い出されちゃうんですよね。

特に卒園証書授与の際。

ひとりひとり名前を読み上げて渡すのですが、もう一気に走馬灯のように、それまでは忘れていたことが出てきちゃうんですから不思議です。

例年、式の直前まで、「今年は泣かない」って思うんですけどね。

入場の曲のイントロでダメですもんね(笑)。

泣かないことはもう諦めていますから、当日は、大きめのタオルハンカチ常備で臨みますけども。

保育期間が長くても短くても、それぞれの子どもにそれぞれの思い出があって、子どもと話した何気ない会話や、子どもの何気ない表情や態度、そういったものが次々と思いだされます。

卒園して、子どもたちはそれぞれの就学先へ就学し、これからも育っていきます。

今の子どもたちが大人になる頃には2029年という大きな節目を迎える頃です。

みんながおとなになる頃、世の中はどうなっているのでしょうか。

どんな職業があり、どんな生活をしているのでしょうか。

先のことは今は知ることはできませんが、それぞれの子どもたちにとって、自分なりの幸せを見つけていてほしいなと思います。

 

 

情報

2017/03/01

現代社会では、簡単に様々な情報が入手できるようになりました。

時代と共に、家にいながら簡単に、あらゆる情報をタップひとつクリックひとつで入手できます。

情報発信のツールとしては、新聞、雑誌、テレビ、インターネット、ラジオなど、目でも耳でも情報が獲得できるようになりました。

しかし、その情報がすべて正しいものなのか、根拠のあるものなのか、は何とも言えないところです。

よくある手口が、「間違ったことは言っていないが、都合のいいように解釈したもの」をあたかも真実で、すべての情報を出しているかのように発信するやりかたです。

例えば、犯罪などが絡んでいる場合は、メディアサイドと警察サイドでの報道協定があり、すべての情報を発信してしまった場合、犯人逮捕や事件解決に不利になってしまう、もしくは2次被害が出てしまうことにもつながりますので、犯人や事件関係者しか知り得ない情報は伏せておきます。

同様に、発信してしまうと無用なパニックを起こしてしまう恐れのある情報は、あえて伏せておくこともあります。

それらの是非はおいておくとして・・・。

これら様々な情報が、あたかも真実だと思う人が多くいます。

切り取られた情報だけを鵜呑みにし、それらがすべて真実であり、世の中の常識であると考えてしまう人が少なからずいるわけです。

ですから、日本では、様々な詐欺が横行するわけですね。

例えば北欧などでは、「見聞きした情報はまず疑う」ということが徹底して教育されます。

3~4歳児から「批判」や「疑問」の教育が行われます。

これは何も、相手を疑うとか批判することではなく、「情報」そのものに対してのことです。

日本だと、そういう行為はイコール相手を疑う、批判することと捉えられがちです。

まぁ、そんなんですから、大人になっても議論できなくて当然です。

ですが、今の時代、この「情報を疑う」ということは、生きていくうえで重要なスキルだと思うわけです。

その情報が、「何を根拠にしているか」「どういった経緯のものか」「有意性のある数値や結果があるものなのか」をまずは判断しないことには、鵜呑みにして多大な損を被ってしまうこともあるわけです。

特に、日本の情報というものは、「経済ありき」で話が進むものですから、「消費者の購買意欲をどれだけ煽るか」が大きな基準になっています。

とりあえず有名大学の名誉教授あたりの名前借りておけば説得力あるだろう、くらいの根拠しかなかったりするのが現実です。

今からを生きていく子どもたちには、これら情報リテラシーをしっかり身に付けて世の中に出ていくことが望まれます。

しかし、ここで大きな問題が生じます。

日本ではまだまだ「子どもはおとなの言うことを聞くべき生き物である」という前時代的な考えの大人が多いものですから、子どもがどれだけ情報リテラシーを身につけても、大人側がそれに対応できないのです。

子どもの「それ本当?」という素敵な疑問に対し、日本の大人の多くは、「反抗的」としか捉えません。

これのどこが教育なんでしょうね?

一緒になって疑問を感じる、その根拠を一緒に考える、議論する、こういった行動につなげてこその教育ではないでしょうか。

数年前から小学校や中学校でも、情報に関しての授業が行われています。

多くは道徳の時間や課外授業などで行っているようです。

最近は、本当にいろいろな場面で感じるのですが、子どもにとって教育はなくてはならないものですが、教育が不足しているのは子ども以上におとなの様な気がします。

 

top