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子どもエッセイ

評価

2012/07/23

おとなが自らの行動を「隠蔽」する原因のひとつに、「評価」が関係しています。

評価そのものが原因ではなく、「評価されること」と「評価というものの認識の履き違え」が原因のひとつだと言ったほうがいいでしょうね。

学校や教育委員会に限らず、どんな仕事でも「評価」はつきものです。

日本人は、特に評価を怖がる傾向にあるようです。

評価とは、そもそも、自らの行動などを振り返って改善していくための、いわば「ツール」の一つであって、「結果」ではありません。

ですが、評価をイコール結果だと履き違え、自分のあり方が、「評価が悪くなければいい」ということが目的になりやすいようです。

目的がこの時点で間違ってますので、例えば、学校というところですと、「子どもを健全に」という目的ではなく、「学校内部で問題が起こらない」ことが目的になります。

問題が起こらないことは悪いことではないですし、ひとりひとりの子どもが健全であるために問題が起こらないというのが理想ではあるのですが、そうではなく、「問題があっても問題として捉えない」と安楽な方法を取ってしまいがちです。

それらのおとなの歪んだ評価意識が、大津市のいじめ事件の隠蔽にも絡んでいるのではないでしょうか。

人間は誰もが、今ある場所や財産、友人、家族など自分がもっているモノを失くすことは恐怖を覚えます。

評価されることにより、仕事を失うことに怯える気持ちも理解はできます。

ですが、子どもに携わる仕事をしている以上、子どもの命を犠牲にしてまでの自己保身は絶対にやめてほしいことです。

長年、そうやって問題から目を逸らし続け、汚点と思われるものはすべて「なかったこと」にしてきたおとなたちは、徐々に蝕まれていて、今更、子どもを主にすることはできないのかもしれません。

腐りきってしまっているのかもしれませんが、人間としてまだできることはあるはずです。

 

今回の大津市の件も、表沙汰にならなければ、「なかったこと」として処理されていたんでしょうね。

日本全国、ここまで凄惨なものとはいかなくても、同じようなおとなの隠蔽はあちこちにあるはずです。

それらすべてが明るみに出ることはないと思いますが、ひとりでも多くの子ども達が、救われるようなおとなのあり方を、考えて欲しいと思います。

そして、今回亡くなってしまった子どもが、少しでも救われるような、そんな行動に出て欲しいと思います。

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