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2012年 2月

リハーサル

2012/02/29

いよいよ明日は発表会のリハーサル!

毎年、年長児の女の子のお化粧や髪の毛を私が担当してるんですが、できるだけ本物に近くしたいなぁってことで、いつも事前に演目のPVをチェックするんですね。

今年はKARAとAKBなので、それぞれの曲のPVをチェックしていると・・・・。

http://www.youtube.com/watch?v=TczjBn2lt9E

なんだこれええええええ!!!!???

YOU TUBEでミッケしちゃいました!!!

 

思わずPC前で大爆笑してしまいました!

 

 

さて・・・

これはやっぱり・・・

とっきーあたりに本番やってほしいですよねえ・・・?(笑

 

明日ちょっと言ってみよーっと!

マニュアルとルール

2012/02/28

いわゆる「マニュアル人間」というのは、マニュアルどおりにしか動けず、臨機応変に行動できない融通のきかない人のことを言います。

何事もないときはいいのですが、世の中というのは常に、いろんなことが起こり、同じ毎日を過ごすことはありませんし、全く同じことが起きる事もありません。

ですので、「マニュアル人間」だと、日々の生活や仕事において、往々にしていい結果を出せないことが多くあります。

いい結果を出せないだけならいいのですが、余計な手間やトラブルまで引き起こしてしまうこともあります。

これは、どうやら、マニュアルとルールを履き違えているからのような気がします。

マニュアルは、「基本的には参考になり、困ったときに役立つこともあるが、あくまでも参考にしかならないもの」であり、ルールは「他人に意図的に迷惑をかけないように、最低限、守らなければいけないもの」です。

マニュアルは守れても、ルールは守れない・ルールよりもマニュアル重視。

そんなおとなが増えている、もしくは目立っているように感じます。

 

うちの園では、子どもを「一人の人間」とみなして保育します。

一見、ものすごく子どものわがままを通す保育のように思われがちなのですが、人としての「ルール」にはとても厳しいです。

最低限のルールはきちんと守るからこそ、子ども達の自由が保障されるわけです。

逆に、マニュアルに関しては、あまり重要視していません。

マニュアルはあくまでもマニュアルであって、その時々で状況は違ってくるからです。

例えば、赤ちゃんの授乳ですが、マニュアルでは「これくらいの月齢なら4時間おき」などとあります。

ですが、4時間持たずに空腹を感じる子どももいます。そういったときは、マニュアルよりも、その子の空腹を満たす欲求を受け止める方が精神的にも肉体的にも重要ですので、4時間おかずに授乳します。

4時間あけることは、ルールではないからです。

 

世の中を生きていくには、臨機応変に行動できる柔軟さが必要です。

特に、景気が悪い状況だとなおさらです。

これからを生き抜いていかなければならない子ども達には、マニュアル人間にだけはなってほしくないものです。

ケースカンファレンス

2012/02/27

今日は午後から、行政と各小学校・幼稚園・保育所とのケースカンファレンスがありました。

それぞれの機関で、発達に課題を抱えている子ども達に、今後どのような配慮を行うべきか等の情報交換とケース検討などを行うものですが、年に数回、各機関から担当者が集まって数時間にわたり会議をしています。

今日のカンファで出た、ある園さんに通う子のケースです。

その子は、IQが124以上あり、同年代の子ども達と上手く関われない上に、頑固で、その子の対応に保育士が苦労している、というのです。

IQは、85から115程度が平均の範囲で、120を超えると非常に高い数値とされています。

120を超える場合、いわゆる天才肌タイプの子どもで、知的な面が非常に高いケースが多いわけです。

その話を聞いて、一体何に困るんだろうと不思議でなりませんでした。

同年代の子どもとうまく関われないのは、その子の発達レベルが同年代の子どもよりもたまたま上の年代の子どもたちと同じなわけであって、上手く関われないわけではなく、ただ、自分の発達に合った環境がないために、つまらなさを感じているだけのことです。

そのことで、トラブルになるならば、園はその子の知的その他の欲求を満たせる環境を用意してあげるべきですし、ひとりひとりに合った保育を提供するのが、今の日本の保育の最低限のルールなわけですから(現に、保育所保育指針には、ひとりひとりに合った保育を提供するようにはっきりと明文化されています)、子ども自身に問題があるわけではなく、きちんとした保育を提供していない園に問題があるのではないかなととても疑問に思いました。

喉まで出かかったのですが、下手なことを言うと、園否定や保育士否定としか受けられない恐れがあったため、何も言いませんでしたが・・・。

 

なんだかこういった話を聞くと、じゃあおとなは一体どういう子どもだったら納得するのかな?と疑問に思ってしまいますね。

要するに、平均で、枠からはみ出ず、集団の中にきっちり収まり、おとなの言うことだけを盲目的に正しいと受け入れる、そんな子どもしか「いい子」じゃないのでしょうか。

それ以外の子どもは、みんな「問題のある子ども」なんでしょうか。

 

なんだかおかしな話ですよね。

誰一人同じ人間なんていないですし、特にこの乳幼児期は、社会的なルールやモラルを身につけるには、まずは、子どもの受容をきっちり経ることが最低限必要な時期です。

子どもの需要を無視して、おとなの受容を子どもに強いてる気がしてなりません。

そんな状態でよく「子どものため」とか言えるなぁ・・・と中身が子どものままの私は、純粋にそう思ってしまいます。

食べるということ

2012/02/26

昨日、食育に関しての研修を受け、他の園のプレゼンや講義を聞きながら、ふと、そもそも食べることってなんだろう?と考えました。

私達って毎日毎日、当たり前のように何かを食べたり飲んだりしていますよね。

なんで食べるのかって言えば、お腹が減るから。

なんでお腹が減るかといえば、自分の身体が死なないように生き続けるため。

じゃあ、食べることさえすればいいのかというと、そうではないんですね。

食とこころって密接に結びついていて、食べることに関して何かを強制され続けると、徐々に何らかの警告を体が発するようになってきます。

例えば、過食や拒食などですね。

こんな話があります。

私の友人は、子どものころから、家族みんなで食事をすることを義務付けられていました。家族みんなで食事をすることは決して悪いことではないのですが、その食事の風景はとても厳格で、お箸の持ち方、食べる姿勢、食べる順番などなど、しつけがとても厳しく、少しでもやり方が違うと、お父さんから怒鳴られていたそうです。

好き嫌いなんてもってのほかです。

食事中は、必要最低限の会話のみで、静かな食卓を家族で囲む毎日だったそうです。

友人は、とにかくその食事の時間が嫌で嫌でたまらなく、お母さんが作る食事をおいしいと感じる余裕もなく、とにかく食卓に並んだものを口に詰め込み、早く食事を終わらせることが一番の目的だったそうです。

高校卒業後、その友人は、一人暮らしを始め、自炊をするようになり、ダイエットに成功したんですが、特別なダイエットをしたということはなかったんですね。

ただ、食事をちゃんと噛んで食べるようにしたということと、食事を楽しんだということだけ。

つまり、実家にいるときの食事は、嫌な時間だったため、ほとんど噛まずに飲み込んでいたのです。そして、自分が食べたい量ではなく、出されたものを全部食べなければいけなかったため、過食になっていたわけです。

そして、慢性的に悪かった胃腸の状態もよくなり、便秘も解消されたそうです。

 

もしかすると、最近の若い人たちの孤食などは、こういった家庭での融通のきかないマニュアル的な食事風景が原因のひとつでもあるのかもしれませんね。

こうするのがいい、ああするのがいいと、本やテレビなどでいろんなことがマニュアル化されていますが、そこにいる人間の状況に応じて活用しなければ、効果が出るどころか歪みが出てしまいます。

こういったことは、現代では、長い時間を過ごす場所である保育所でもみられることではないでしょうか。

そこにいる子ども達がどんな表情で食事をしているか、子ども達がその時に何を感じているか、どんな意思をもっているか、そういったことをきちんと私達が感じ取り、臨機応変に対応していくことが、現代では特に必要なのではないかと思います。

食育研修会

2012/02/25

今日はお昼から春日市のまみぃ保育園さんで食育研修会でした。

子ども・子育て新システムの子ども指針のワーキングチームの一員であり、新宿せいが保育園の園長の藤森平司氏を講師にお招きして、北は石川県、南は鹿児島県という全国各地の先生方と共に食育について学んできました。

まみぃ保育園さんに向かう前に、今回の参加者である光徳保育園の副園長先生と佼成育子園の主任保育士さんがうちの園に見学に来られました。

短時間でのバタバタした見学でしたが、わざわざおいで頂き、本当にありがとうございました。

食育研修会は、福岡県見守る保育研究会の番外編として行いましたので、事務局である私は事務的なことをチマチマとやりながら、会場で、新宿せいがさん・まみぃさんの食育に関する取り組みを聞きました。

うちからは、うれしいことに栄養士さんが全員参加してくれ、とても熱心に聞き入ってました。

きっと、今回学んだことを、いろんな形で実践してくれるんだろうなぁ・・・。

すごく楽しみです!

 

今回の研修は、突発的なもので、かなり突貫での研修だったのですが、全国各地から福岡に集まっていただき、総勢50名近くの参加者となりました。

各地で保育に本気で取り組んでらっしゃる方ばかりで、みなさんとお話をさせて頂く事で、またいろんな気づきを頂くことができました。

子どもを主体において保育の話ができるということは、本当に嬉しくありがたいことです。

こういった話が地域でできるのが一番いいのですが、地域での研修といえば、なんかこう、腹の探り合いとか、プライドのぶつかり合いとかで、基準が子どもではなく「おとなの見栄」なので、一向に保育の話なんてできません・・・。

今の時代だからこそ、子どもを主体にした保育の話を横のつながりを持って深めていかなければいけないと思うのですが、なかなか・・・。

 

本当に、いろんなことを振り返ったり、学んだり出来た1日でした。

食育に関しての内容は、今後、小出しにしていきますね!

 

気になる子って?

2012/02/24

この数年、「気になる子」という言葉があちこちで出てきます。

いわゆるじっとできない子や発達が偏っている子などのことを遠まわしに言う表現なのですが、この「気になる子」というのは、どうもおとな主体の表現のような気がしてなりません。

おとなから見て「気になる」わけで、それが子どもの発達を専門的にみた上での考えならまだ理解できますが、どうもただ「おとなの言うことをきかない」とか「思い通りに動かない」とか大人の都合で見ての言葉のような気がします。

そして、何を基準に気になっているかというと、子どもの月齢に応じた発達の平均的なものを目安に、それに達していない場合に「気になる」わけです。

確かに、月齢ごとの発達の目安は、子どもの発達をみていく上で、目安としては有効的なものですが、それはあくまでも目安であって、発達のスピードは子どもそれぞれで違います。

親からすると心配ですし、遅れているんじゃないかと不安になることも多いと思います。

一番不安になるのは、誰よりもその子どもの親であるわけです。

ですが、近年、発達障害や気になる子だという言葉が、さまざまな所で耳にするようになり、専門的な知識もなくケアも出来ない人が、やたらとこれらの言葉を使っては知った顔で発言することが多くある気がします。

専門的な知識もなく、マニュアル本を見ただけで、子どもを判断し、決めつけ、やたらとすぐに検査をしたがったり、なにかしらの診断名をつけることに躍起になったり・・・。

その結果、親に対して負担を強いるばかりで、まともなケアもできず、虐待や育児不安を煽るだけにつながってしまっていることは否定できません。

 

確かに、子どものためを思えば、早めに苦手なところを発見し、それをケアしていくことがとても大事です。

ですが、親の受容もなしに、「子どものため」だといういかにも素晴らしい名目を掲げ、やたらと色分けしようとしている所が目立ってます。

行政にしてもそうですし、幼稚園や保育所・学校などでもそうです。

本当に子どもの発達を考え、子どものためを思うプロならば、いかに親の不安を取り除きながら、負担をかけずに、前向きに子育てできるようなケアで子どもの苦手な部分を補うやり方をやっていくのが、本当のプロというものではないでしょうか。

もちろん、私を含め、うちのスタッフたちは、まだまだプロと呼べるほどのものではありませんし、発展途上ではあります。

ですが、プロとしての意識だけは、常に忘れないようにしています。

親を追い詰め、子どもを追い詰め、色分けして診断名をつけることが、本当のプロの仕事でしょうか?

それが本当に子どものためでしょうか?

プロとして、もう一度、「プロということ」、「本当に子どものためということ」、そういったことを特に行政と同業者には考えてほしいものです。

 

風呂敷

2012/02/23

今日は2月23日で223(つつみ)の語呂から「風呂敷の日」だそうです。

風呂敷といえば、この数年、その機能性を見直され、いろんなところで実用的に使われているのを目にする機会が増えました。

エコロジーの観点からも、スーパーのビニール袋や贈り物のラッピングなどの削減にも繋がります。

風呂敷のつくりが、大きな正方形の布ですので、箱型のものだけでなく、例えばごろごろした野菜や果物、ペットボトル、ワインなどの瓶なども包むことが出来ます。

写真のように、斜めがけにできるいわゆる「バナナバッグ」のような使い道もできます。

しかも最近では、昔ながらの唐草模様以外にも、リバーシブルで使えるものやキレイな発色のものなど、実に様々なデザインのものが売られています。

ちなみに、検察庁の検察官は、伝統として、押収したものや書類などの持ち運びには、風呂敷を使用しているそ

うです。そして、柄は地検ごとに違うのだとか・・・。どのような柄があるのか見てみたいものです。

この風呂敷のように、昔ながらの道具が再び見直され、使われるようになるということは、昔の人たちの知恵が時代に関わらず有効であることの証でもあります。

確かに、昔ながらの知恵がすべて現代に通用するわけではありませんが、見直してみると十分に活用できたり、むしろ、現代こそ必要なものだったりします。

これからの時代を生き抜いていかなければならない子ども達に、昔ながらの人たちの知恵を伝えていくことも、私達おとなの大事な使命ですね。これがいわゆる伝統というものなのでしょうね。

 

 

 

義務教育期間の留年

2012/02/22

大阪市長が大阪市教育委員会に、小中学校の間の留年を打診する旨の案を提出したそうです。

「みんな一緒」が当たり前とされる日本で、とても勇気のある発言だなぁと思います。

というのも、子どもの学年や進級を年齢で区分するのは、先進国では日本くらいのもので、先進国では、基準となるのは子どもの年齢ではなく、「発達」だからです。

子どもの発達の順序というのは皆一緒ですが、そのスピードは様々で、早い子もいれば遅い子もいます。

極端な例を挙げれば、例えば同じ6歳でも、走ることもできれば飛びはねることもできる子どももいれば、歩くことはできても走ることはまだできない子どももいるわけです。

ですが、日本の場合、子どもの発達がどうであれ、その年齢が来れば無理やり小学校へ入学させます。

そして口を揃えて言うのが、「6歳にもなって〇〇ができないのはおかしい」とくるわけです。

おかしいのは子どもではなく、子どもの発達を理解していない周りのおとなです。

 

欧米では、当たり前のように、留年や飛び級があります。

9歳になっても就学前の保育所などですごす子もいれば、5歳でも小学校へ入学する子もいます。

そして、多くの保護者は、小学校入学を少しでも遅らせようとします。

「うちの子はまだそこまで発達していないから」

との理由です。

日本では、きっと真逆でしょうね。

「差別だ!」

とクレームの嵐かもしれません。

 

おとなが子どもを見る姿勢の違いで、子どもがそのままの自分を受け入れられるかどうかが決まるのですが、日本のおとなたちは子どもの発達なんかお構いなしですね。

年齢や生まれ月に囚われて、それを基準にするあまりに、子どもをきちんと発達させようという本来の目的から大きくずれてしまっているように感じます。

子どもの発達をきちんと保障するというおとなの義務は一体どこにあるのでしょうか?

子どもが自分なりに発達していこうとすることを邪魔することは、虐待と言っても過言ではないと私は思っています。

そう考えると、日本の教育は、子どもひとりひとりが自分なりに発達していこうとすることを保障するような学校教育は行っていない気がします。

まだできないことを、年齢の枠だけで子どもを見て、無理強いしているわけですから、これは、国連が採択している「子どもの権利条約」に見事に違反しています。

 

「みんな一緒」がいいということは、一見、差別などがないように聞こえますが、私は逆だと思います。

「みんな一緒」でないと、いじめや妬みの対象になるのがこの日本という国ではないでしょうか?

そんなにみんな一緒がいいのでしょうか?

それならば、ロボットを量産すればいいだけの話です。

 

もっと真剣に、そして専門性をもって、子どもの発達のことを国として考えてほしいと思います。

子どものため???

2012/02/21

年末から年始にかけて、頭にくるというか、それを通り越して情けなく感じる出来事がありました。

詳しいことは割愛させて頂きますが、同じ、子どもに携わる仕事をされている関係機関とのやり取りでのことでした。

園からの意見などにはまったく耳を貸してもらえず、いかにも自分達が正義だといわんばかりに強硬手段に出られ、どれだけこちらがやめてほしいと頼んでも、「子どものため」だと言い張る方々でした。

口では、「子どもため」だとおっしゃっていましたが、私や園のスタッフからすれば、年末の慌しい時期に、いわゆる「やっつけ仕事」を終わらせたい感じがありありと感じ取れましたし、「何かあったときに私達はこれだけ動きましたよ!」という責任逃れのために動かれている気がしてなりませんでした。

その関係機関の方々の浅はかで、客観的な事情も聞かずに、思い込みだけで動かれたことによって、そのケースに関係していた子どもの保護者は深く傷つかれました。

保護者が不安定になれば、子どもにも影響が出てきます。

本当に子どものためを思うなら、どうしてもっと保護者に寄り添ってくれなかったのでしょうか。

どうしてもっと園の意見を聞き入れてくれなかったのでしょうか。

何がどう子どものためと言うのでしょうか。

 

人は、何かがあったとき、誰かに責任を押し付けることで解決しようとします。

でも、他人を責めて、何か解決するとは思えません。根本的な解決にはなりません。

何か問題が起こったとき、誰かを責めるのではなく、次に同じことが起きないように皆で取り組むことのほうが、よほど解決に近づけます。

 

子どものためだといいながら、実は自分のプライドや自己保身のため。

これが日本の、子どもに携わる仕事をしているおとなの姿なんだなという典型的な例を間近に見て、同じ子どもに携わる仕事をしている者として、はっきり言って吐き気がしました。

 

保育現場や教育現場、行政や児童相談所など、いわゆる子どもに関係する機関は、20年前に比べればずいぶんとマシになった気がしていましたが、根本的なところは変わっていない人もまだまだたくさんいるんですね。

同じプロとして、とても恥ずかしく思います。

 

 

音の響き

2012/02/20

ある小学校での授業中での話ですが、社会の授業のときに、先生が都道府県に関しての質問を生徒にしたそうです。

「日本には何県があるでしょう」

という質問に、子ども達はみんな「福岡県!」などと県名を答え、ある子どもが、

「志村けん!」

と張り切って答えたそうです。

本人は、真剣に答えたつもりだったのですが、教室中は笑いに包まれ、ふざけたと思った先生は、その子どもを厳しく叱ったそうです。

「それは違う!関係のない発言をしてはいけません!」

 

この話を聞いて、何てもったいないことをするのかなぁと思いました。

確かに、志村けんは都道府県名ではありません。

ですが、その子どもはふざけて言ったわけではありません。

頭ごなしに叱られたことで、その子どもは今後、発表することにも気後れするでしょうし、きっと、何がどう違うのかも分からずじまいです。

どうしてその発言のときに、

「確かに“けん”がついているけど、“志村けん”の“けん”は、人の名前だよね。今話しているのは、日本にどういう県があるかってことで、たとえばみんながすんでいる福岡県とかお隣の佐賀県とかを話しているんだよ。それに使われている“県”は、日本を47個の地方に分けた時に使われる“県”なんだよ。でも、同じ“けん”だから、文字数も一緒だし、音の響きも一緒だよね。じゃあ今度、同じ文字数同じ言葉の響きがどんなものがあるか国語の時間にやってみようか」

といったことを先生は言えなかったんでしょうか。

社会の時間は社会だけ学べばいいというものではないと思います。

すべての教科にはつながりがあって、生活にも密接に結びついています。

そのつながりを断ってしまうような授業だと、ただの知識の詰め込みになってしまいます。

学力向上のために、学習要領が改訂され、カリキュラム数が増えたことで、時間内にどれだけ詰め込めれるかが主流になってしまっている気がします。

小学校や中学校の先生達も、目の前のカリキュラムに追われる日々だということは理解できますが、もっと、子どもそれぞれにあった学習の進め方や、教科と教科の連続性などを踏まえた学習を義務教育の間で行って欲しいなと思います。

そのためにも、国がもっときちんと子どものための教育を理解する必要があると思います。

今後、進められる「子ども・子育て新システム」で、少しでも子どもにとって本当に必要な教育を行える国になってほしいものです。

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