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2012年 1月

発表会

2012/01/21

うちの園では、毎年3月頭に発表会を行います。地域性を踏まえて、この時期に行うのですが、1年間の集大成を感じることもできます。

今年度は、3月3日(土)に行う予定なのですが、園では、年明けより発表会の準備に取り掛かります。

今日は夕方から、全スタッフで発表会の打ち合わせを行いました。

発表会では、それぞれの子どもが自分が保護者や他の子ども達、先生達に見せたいと思うものを選びます。合奏を選ぶ子、芸能人バリの演技を見せたい子、昨年度では、身近な題材から地域の消防団の演技を披露する子もいました。

幼児クラスになると、振り付けや衣装など、子ども達からいろんな案が出てきます。出てきた案を、他の子どもと先生とで話して完成します。

振り付けも、手本となるのは先生ではなく、年長さんや得意な子が先生役をやってくれることもあります。

この時期になれば、保育室では発表会で使う音楽が1日中流れ、熱心に自ら本番に向けて取り組む子ども達の姿が見られます。

 

今年度はどんなことを発表してくれるのでしょうか。

今からとても楽しみですね。

ちなみに、今年度ももしかすると、あんなところやこんなところに先生達が脇役として登場することも・・・・?

当たり前

2012/01/20

「当たり前」と思うことって何がありますか?

日々の生活の中ででも、例えば朝ごはんには「ごはん」が当たり前という家庭もあるでしょうし、「いやドーナツだ」という家庭もあるでしょう。

この「当たり前」は、その人が置かれている環境によって様々です。

先ほどの、朝ごはんの話ひとつでも、日本では「ごはん」ですが、ではアメリカではどうでしょう?

「ドーナツ」でもおかしくないですよね。

まぁ、最近は日本でも家庭によって様々ですので、朝ごはんひとつでもその多様性は計り知れませんね。

この「当たり前」を、他人にもその人の「当たり前」があることを考えずに話を進めると、なかなかコミュニケーションは上手くいきません。

「当たり前」が人それぞれにあること、それを踏まえた上で話をすると、意外と互いの立場の違いにも気づき、互いに学びあえるものです。

最初からその「当たり前」を押し付けてしまうと、平行線をたどるばかりで、一向にコミュニケーションはとれません。

と、おとなの場合はそうなんですが、子どもはさすがだと思います。

互いの違いを受け入れ、個性を認め合ってるんですよね。

最初は、自分の思いだけをぶつけますが、話すうちに、相手はどう感じたのか等を受け入れ、自分の中で上手に消化します。

それでも上手くいかないときは、またぶつかります。だからといって、おとなと違って、相手を憎んだり陥れたりはしないんですよね。

どうしても受け入れられないときは、適度に距離を置きます。距離をおきつつも、「あの人はこういう人だ」と認めています。

そして未然にトラブルを避けようとします。

子どもから学べることは本当にたくさんありますね。

脳の発達

2012/01/19

昨日、脳の検査技術について書きましたが、誤解を招くといけないので追加しておきます。

確かに生後間もなくの脳を検査することで、発達障害等の可能性の有無が判断できる技術が開発されていますが、生まれつきの脳が何かしらの不具合があったからといって、それが一生続くわけではありません。

人間の脳は、誰一人として同じ重量、同じ形はない上に、日々様々な発達を遂げます。

つまり、環境(家庭・社会・自然・周囲の人や物などすべて)によって、良くも悪くもなるのです。

ですので、生まれつきの脳の状況に不具合があったとしても、その不具合が解消される可能性が大きくあります。

特に、生後から思春期を迎える10歳前後くらいまでの発達が目覚しいのですが、それ以降も、人間の脳は死を迎えるまで発達し続ける器官だそうです。

思春期といえば、2001年にスペインのグラナダで行われたOECDのフォーラムにおいて、ホセ-マヌエル・ロドリゲス-フェレール博士がある仮説を提起しています。

思春期以降に見られる青年期(20から30代も含む)特有の社会的・行動的・心理学的特徴は、これまではホルモンのバランスが崩れることによって起こるとされていましたが、実は、前頭前野が成熟する期間であり、20から30代になってもまだ完成しないとの見解を提唱しました。

交通事故を例に挙げてみれば、30代後半から交通事故を起こす人が急激に減るという事実があります。

前頭前野は感情や自己制御力を司る脳の器官でもありますので、そう考えると、30代後半になって人間はようやく自分の感情を上手にコントロールできるようになるのかもしれません。

上記の説はしっかりとしたデータを元になされた提唱ですが、あくまでも2001年時点では仮説であり、完全な科学的根拠があったわけではありません。2001年から10年以上経過した現在では、どのように実証されているのか、もしくはやはりあくまでも仮説であったのか、とても気になるところです。

 

 

脳と学習

2012/01/18

これまでの教育といえば、心理学などの心の動きをもとに学習方法等が考えられることが多く、どちらかといえば、かなり情緒的なものでした。科学的な見解に基づいた学習法ももちろん活用されていましたが、教育においてはほとんどが、経験によるものでした。

しかし、近年、脳科学が進化し、それまでこころの動きを科学的に研究する心理学において、「こころ」の動きは「脳の動き」であることが徐々に浸透し始め、心理学は心の科学であるとの認識が進んできました。

これらは、様々な検査技術の開発によります。

MRI(脳構造を画像化する技術)やEEG(脳波)などは、これまでも一般的で、脳のどの部分に傷があるか、脳内の電気活動が正常かどうかなどを判断するときに使われています。

近年、これらの技術よりも進んだfMRI(様々な種類の刺激とこころや認知に関連した脳部位の活動の増加を調べることができる)やPET(脳内で作用している薬品や物質を3Dで色をつけて画像化できる)などの開発により、感情や認知の動きが、どのような時にどの部位が働くかなどを視覚的に確認することができるようになりました。

世界的に見て医療が最も進んでいるアメリカでは、このfMRIやPETにより、自閉症やADHDなどの高機能自閉症を生後すぐから診断できるようなり、また、それらに有効な薬の開発も進んでいます。

それぞれの脳機能にあった学習法を見出すことが可能ではないかということで、OECDでは、年々、脳と学習の関係性や、学習を科学的に解明することで、有効的な学習法(ひとりひとりに合った学習法ということが前提)を見出すための研究が進んでいます。

実際に、先進国の中では、乳幼児教育に関しても、「脳科学」を根拠にカリキュラムを組む国も多くあります。

残念ながら日本は先進国でありながら、医療の研究にかける予算があまりにも乏しく、上記のような先端技術を取り入れている病院がごくわずかであるため、教育や発達障害などに関する知識や技術・認識などもかなり遅れています。

特に、教育者と科学者との意識の相違が多く、研究を進めようにも、教育者は情緒的に感情論で話を進めようとしますし、科学者は科学的に客観的事実に基づいて話をすすめようとしますので、なかなか話し合いにすらならないというのが悲しい現状です。これはどうも日本に限ったことではないようですが・・。

 

自分に合った学習法を獲得すれば、子どもは(おとなもですが)どんどん学習が楽しくなってきます。学習が楽しくないと感じるのは、自分に合ってないからで、自分に合った方法や興味のあることであれば、どんどん吸収していきます。

そして、学習は、何も子どもだけがするものではありません。おとなも人生において、死ぬまでが学習の連続です。

人類が楽しくいろんなことを学べるように、まずは、教育者と科学者との垣根を越え、互いに専門知識を出し合い、同じ目標に向かって歩みを揃えるところから始め、先々は日本でも、情緒的ではなく、科学的根拠に基づいた教育によって、誰もが楽しく学べる環境になってほしいと思います。

 

 

ネタ

2012/01/17

毎日ブログをUPしていると、日々の生活の中で、何かブログのネタになるようなことはないかなぁとつい探してしまいます。日ごろ意識していなかった所などにも気づけるようになって、視点を変えてみると同じ事柄でも全く違うモノに映ったりと面白いことが多いですね。

子どもに関してのネタは、相変わらず尽きないわけですが、毎日毎日お堅いことばかりだと、見ているほうも頭が痛くなってきますし、書いているほうも頭が痛くなってきます。

たまには、なぁぁぁぁんにも中身のないブログもいいものかなぁと、今日はまあああああったく中身のないブログでいきたいと思います!!!

中身がないわけですから、どうでもいいことを書かなければなりません!

どうでもいいこと・・・

うーん・・・

どうでもいいことって言われると、これまた困っちゃいますね・・・(笑

 

ということで

明日はまたちょっとお堅いことでも書いてみようと思います(タブン・・・。

OECD

2012/01/16

タイトルにあるOECDという言葉は、この数年、新聞などでも目にする機会があるのではないでしょうか。

新聞などでその言葉を見るのは、主に世界共通の学力調査の結果が多いことと思います。

OECDと言われてもピンとこない方が多いと思いますので、今日は、OECDがどういう機関なのか少し説明したいと思います。

OECDは正式名称を経済協力開発機構といい、英語では、Organisation for Economic Co-operation and Developmentといい、その頭文字をとってOECDと表されています。民主主義を原則とする先進国家が集まる唯一の機関であり、パリに本部が置かれ、公用語は英語とフランス語です。別名「先進国クラブ」とも呼ばれ、現代のグローバル化の時代において、経済・社会・環境などの諸問題に取り組んでいます。

経済といわれれば、子どもに直接的にかかわりがないかのように思われますが、経済と教育は切っても切れない関係です。

というのも、教育を受ける環境にあるからこそ、経済が発展するわけで、教育が行き届いていない国は、経済が発展しづらい傾向が強いからです。

そのため、OECDのように、先進国国家が集まって、教育に関しての統計を取ったり、研究を深めたりすることは、ひとりひとりの子どもにちゃんとした教育をいきわたらせるためにも必要なことと言えます。

OECDが主催するPISAの学力調査は、3年ごとに、数学的リテラシー・科学的リテラシー・読解力の3分野において、世界共通で行われるわけですが、2006年のの学力調査では、日本の順位が下がってしまったことで、新聞などで大々的に取り上げられました。

学力調査の順位が下がってしまったことで、ゆとり教育を見直し、カリキュラム数を増やし、学習時間を大幅に増やすという対応を行っているわけです。

数年前から、小学校などの学習時間が増えたのはこのためです。

ですが、勉強する時間をただ増やすだけで学力そのものが伸びるという考えは、どうも安直に感じます。

時間よりもその内容を考えなければならないと思うのですが・・・。

というのも、確かに学力では、2000年・2003年・2006年の国際的位置づけよりは、2009年の順位が高くなっていますが、反比例して、2011年に、同じOECDで行った幸福度調査では、加盟国34カ国中19位という微妙な順位です。

学力は高くても、たとえば、「自分には頼れる人がいない」と感じるのは調査対象の90%、「過去1ヶ月で他人の手助けをしたことがない」のは23%、「5年後、今よりも自分の生活に満足していると希望を持っている」のは40%(ちなみに、この結果は加盟国の中で最低ラインです)、「日々の生活の中で、肯定的な経験(喜びや嬉しさなど)よりも否定的経験(寂しさ・悲しみなど)を感じることのほうがおおい」のは68%などといった、極端に幸福度が低いという結果が出ています。

ちなみにこの調査は15歳以上75歳未満の6000名を対象として行われました。

社会に出たおとながあまり幸福を感じていないのは、現代日本ではいたるところで顕著に見られますが(だからといっておとなが幸福を感じないことそのものを肯定するわけではありませんが)、やはり引っかかるのは、その対象者の中に15歳から18歳の子どもがふくまれていることです。

調査の中には、将来への夢や希望・期待などを質問する内容もあり、その結果、半数以上が夢も希望も持っていない上に孤独であると感じている現状です。

学力をあげることは悪いことではありませんが、学力だけでなく、同時に「人間」としての在りようにもきちんと目を向けなければならないのではないでしょうか。

教育とは、学力だけでなく、社会的な生き物としての「人間」の在り方もはぐくむものではないでしょうか。

 

これからを生きる子ども達が、少しでも未来に夢や希望をもてるよう、私たちおとなが生きることを楽しむという前向きなモデルを日々示さなければならないのでしょうね。

 

 

 

 

休日

2012/01/15

休日は皆さん何をしてお過ごしでしょうか?

疲れが溜まって睡眠にあてる人、子ども達と思い切り遊ぶ人、趣味を楽しむ人、家の用事を済ませる人などなど、休日の過ごし方は人それぞれです。

休日にまで仕事をする人も、日本には多くいることと思います。

よく、日本人は休み方や休日の過ごし方が下手だといいます。休むということを=サボるという間違った認識を持つ人も多いですよね。

 

特に、バブル時期を経験した人や戦後の高度成長期を経験した人に多い気がします。

そのころは、戦後で物もお金も人も極端にないというのが日本という国の現状でしたし、経済的にもこれ以上ないところまで落ち込んでいましたから、動けば動いただけ、働けば働いただけ、結果が出やすく、底辺から上へ上へと上る一方だったのです。

ですので、休みも取らず、とにかく働いて、生活の水準をあげる事や経済を良くする事に躍起になっていたわけですが、現代日本はもう時代が違います。

経済は上り詰めるところまで上り詰め、下降線をたどるばかりで、失業率も高くなり、経済的にはかなり不安定な状態です。

だからといって、では、また戦後のように、休みも取らず闇雲に働けばいいのかと言われると、今の時代でそんな方法が通用するわけはありません。

休みを取らずに働くことは、日本ではさも美談のように受け取られますが、その実、様々な病気を引き起こすだけで、結果として短命で終わってしまうことにつながります。特に現代の日本では、そう言えますね。

 

現代社会は情報社会と言っても過言ではないくらい情報が溢れている上に、科学や文明もまだまだ進化するものの、頭打ちの感は否めない状態です。そんな高度な文明社会において、比例して付きまとうものがストレスです。

現代社会では、このストレスと上手に付き合っていかなければなりません。

ストレスは、全くないのも問題で、ほどほどにストレスを感じるのも必要なのですが、抱えすぎると様々な病気を引き起こします。

そうならないためにも、適度な休息や適度な息抜きの方法を身につけることが大切ですね。

 

自分の好きなことをする時間を、週に1度でもいいので持ったり、逆に、何にもしない時間を持ったり、自分に合ったリフレッシュの仕方を見つけ、休日を有効に使いたいですね。

特に、これから先の時代を生き抜いていかなければならない子ども達には、生きる力を身につけると共に、自分の時間の使い方も同時に身に着けてほしいと思います。

 

科学

2012/01/14

科学と言えばみなさん何を思い浮かべるでしょうか?苦手イメージを持たれてる方が多いのではないかと思います。

詳しい専門的なことは、確かになじみがなく難しいように感じられるかもしれませんね。ですが、子ども達にとっては日々の生活そのものが「科学している」と言っても過言ではありません。

「どうしてだろう?」

「ほんとにそうなのかな?」

自然や食べ物、他人などなど、自分の身の回りの環境に、疑問を持ったり不思議さを感じたりすることで、自ら働きかけ、そして、自分なりに何かを得るという環境との相互作用は、科学の第一歩です。そこには、必ずしも明確な答えが必要なわけではなく、重要なのは、疑問に感じることや不思議に思うことです。

いわゆる「答え」を身につけたところで、それはただの知識であり、順序だてて考えることや疑問に向き合い解決しようとすることなどは身につきません。

よく見られる子どものいたずらも、実は科学していることの表れでもあります。むやみに制止するのではなく、子ども達の科学する力を大切にしたいですね。

選択

2012/01/13

人間は生きていく中で、様々な選択をしなければいけません。選択の連続と言っても過言はないくらいです。

朝、何時に起きるか、朝ごはんに何を食べるか、どうやって職場まで行くか、職場でどのように働くか、昼食には何を食べるか・・・といった具合に、1日の中でも常に何かを選択して生きています。

そして、その選択には必ず責任が生じてきます。

自分がした行動に対しての責任です。

ですので、何かを選択する際には、周りに迷惑をかけないか等を考慮して決めなければいけません。他人のことを考えなければ、何をやってもいいということになってしまい、無秩序な世の中になってしまいます。

と、難しく書きましたが、本来わたしたちおとなは、上記のようなことを、無意識で自然にやっているわけです。

ただ、昨今よく耳にする「クレーマー」と呼ばれる人たちは、どうも権利ばかりを主張して、自分が果たすべき義務や責任を果たしてない気がします。

そういったおとなは、小さいころから何かを選択し、選択したことに対しての責任を負ってこなかったのではないかと思います。

ですが、それは、その人たちが育った環境や家庭、その人たち自身の問題というよりも、これまでの日本の教育の弊害のような気がしてなりません。

小さいころから「こうしなさい」と一方的にいろんな方法だけを教え込まれ、自分で考えるということも、やってみて失敗するという経験もないまま、言われたことだけをきちんとこなすのが「良い子」だとされてきた日本で、おとなの言うとおりに生きてきて、社会に出て突然、何もかもを自分で考え、選ばなければいけない環境に放り出されてしまい、困っているおとなたちが現代社会にどれだけいることでしょうか。

社会的にも問題になっている「指示待ち族」といわれる社会人にも当てはまることですね。

おとなの言うとおりに「良い子」で生きてきて、社会に出たら自分で何も考えられず、指示通りにしか動けないという状況は、教育の弊害としか言いようがありませんし、とても不幸なことだと感じます。

そういった不幸な社会人を減らすためにも、教育を根本から見直し、子どもの人権をもう一度考え、ひとりの人間として本当に人生に必要な教育を行えるような国に、日本も少しずつでも前進していって欲しいと心から願ってやみません。

チューリップ

2012/01/12

毎年、秋になるとチューリップを植えています。

卒園式の時に、園で育てたチューリップを1本ずつ、卒園児に渡したいと思って始めたことなのですが、なかなかタイミング良く育ってくれません。

といっても、全く育たないというわけではなく、蕾の状態だったり、花が咲ききってしまった後だったり、本数が足りなかったり・・・

タイミング良く咲かそうと思えば、たとえば球根を冷蔵庫で寝かせて育成期間を考慮して植えつける等の方法があるのですが、それではやっぱり自然ではないですし、気温や天気などによって、育ち方や開花時期が違ってくるということに気づくこと自体に、意味がありますので、自然の気候にまかせて、タイミング良く育つようにと毎年願いを込めながら植えています。

チューリップといえば、真っ先に思い浮かぶのがオランダでしょうか。

それもそのはず、チューリップはオランダの国花ですので、様々なメディアなどでオランダが取り上げられるときは、必ずと言っていいほど、チューリップがセットになっています。

国花ということもあって、チューリップにまつわるオランダの民話があります。次のようなものです。

ある美しい少女がいました。その少女に3人の騎士が求婚しました。求婚するときに、一人は黄金の王冠、一人は剣、一人は財宝をもって、それぞれ愛をささやきました。しかし、三人の騎士から求婚されたものの、少女は誰か一人を選ぶことはできませんでした。少女は悩んだ末に、花の精霊にお願いして、自分を花の姿に変えてもらいました。3人の騎士が持ってきた王冠は花に、剣は葉に、財宝は球根になりました。そして、花の姿に変えられた少女の名前から、その花はチューリップと名付けられました。

私たちは、生きていく限り、何かを選びながら生きていかないといけません。選びきれないことに遭遇することもしばしばです。

選ぶということは、何かを捨てることでもあります。

だからこそ、選びきれないとき、それぞれを上手く取り入れて別の形にして残していくということが大切なのではないでしょうか。

それが、これからの時代に必要な「共生」ということにもつながっている気がします。

 

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