前回のブログで、「大人の再教育」が必要では?と書きましたが、誤解されがちですが、「大人側がダメな人間だ」ということではありません。
「知らない」「わからない」ことは、おとなであっても当たり前に存在します。
前回も触れましたが、おとなは当たり前だと思って育児をするわけですから、悪気があるわけではないことがほとんどです。
もちろん、虐待事件に関して、すべてがそうとは限らず、加害者側の大人の歪んだ性質などによって明らかな悪意をもって、我が子を「自分の所有物」として取り扱うことによるものもあるでしょう。
ただ、多くの虐待のほとんどが、逮捕されたり一時保護されたりした際に、「虐待だと思っていなかった」と答えることがほとんどとのことです。
育児においては、何が正しくて何が間違っているのか、その線引きは難しく、正しい育児方法があるわけではありません。
子どもはひとりひとり人格が違いますから、Aちゃんには有効でも、Bちゃんには逆効果、ということもよくある話です。
ですから、正しい正しくないの判断は、「その国の法律」と「人道的であるかないか」によってなされます。
日本は先進国であり、教育水準も生活水準も高い国です。
そういった国では、暴力や暴言による育児は「人道的」ではありませんし、何よりも、憲法や児童福祉法、子どもの権利条約によって、禁止されています。
ここに、実際のおとなの姿との乖離が見られます。
法的にはそうでも、現実社会では理解されていない、わけです。
そういった乖離は、いたるところで見られることですし、日本人は特にその曖昧さを好む傾向もあります。
しかし、それによって子どもの命が奪われていいわけではありません。
そこで、今回、新たに「保護者による体罰によるしつけの禁止」が明文化されることになりました。
「罰」が見えないと律することができない人間が多いということですね。
同時に、子どもへの考え方の理解が深まる第1歩でもあります。
世の中はとかく、発言権をもった人の意向で動きがちです。
おとなは発言権を持っていますから、世の中はおとなの都合によって動かされちきます。
子どもにも発言権はあります。同じ人間ですから。
子どもの発言がもっと重視される世の中になっていくといいなぁと個人的には思っていますが、やっぱり世の中の多くのおとなは、まだまだ「子どもにまかせたら何をするかわからない」といったさも自分が万能かのような勘違いが蔓延っていくんでしょうね。
万能なおとながいるのなら、1度でいいから会ってみたいものです。