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園長の日記

第18回 日本赤ちゃん学会 学術集会

2018/05/21

私が所属している学会のひとつに、「日本赤ちゃん学会」があります。

最近はNHKなどの番組にも出演されている小西行郎先生が理事長をされている学会です。

随分前のブログでもこちらの学会の紹介をしたかと思いますが、日本を代表する様々な分野の研究者が集う学会です。

毎年、6~8月に、会場持ち回りで年に1度の学術集会が開かれます。そこでは、最新の研究結果をシンポジウムやラウンドテーブル、ポスターなどで学ぶことができます。

内容がすべて、名前の通り、「赤ちゃん」に関するものや、乳幼児に関するものばかりです。

保育現場の私たちにとっては、多くのことを早く学べる貴重な機会です。

今年度の学術集会は、大会長が遠藤利彦先生、会場は東京大学本郷キャンパスになります。

いわゆる赤門があるところです。

遠藤先生は、今年度施行の保育所保育指針の改訂だけでなく、小学校の学習要領、幼稚園や子ども園の要領・指針の改訂のきっかけとなる報告をされた方で、東京大学大学院教育学研究科の教授、東京大学附属発達保育実践政策学センターの副センター長を担っていらっしゃいます。

制度の改革にも寄与した方が主催の学術集会ですし、会場は東京大学ですので、今回はいつも以上に多くの参加者が見込まれます。

現に、保育現場にも、様々な保育団体からの案内が届いています。

多ければいいというわけではないですが、赤ちゃん学に興味を持ってくださる方が増えることは単純にうれしいことです。

こちらの学会の学術集会のいいところのひとつに、学会員でなくても公開シンポジウムなどに参加できることです。

また、学会と言えば研究者のみが対象というイメージですが、保育現場の参加も歓迎してくれます。

学会理事長の「現場に役に立たない研究はやる意味がない」との辛口の理念によるものです。

今年度も例年通り、ラウンドテーブルに参加予定ですが、今年度は新しい取組みをさまざまな所属の方々と行う予定です。

会場が東京にはなりますが、ご興味がある方はぜひ参加してみてください。

詳細は↓のURLからどうぞ!

https://sites.google.com/view/akachan18-cedep

多角的な視点

2018/05/02

保育現場に勤め始めて、もうすぐ18年目に突入します。

最初は腰を据えるつもりはなく、あくまでも事務としてお手伝いの予定が、気づいたら保育の世界にどっぷりとはまってしまっています。

それほど、保育というものは魅力があり、飽きの来ないものです。

若いころから、ずっと不思議に思っていましたが、いわゆる教育界はどうしてこうも世の中とかい離したものなのか、ということです。

今でも変わらず不思議に思いますが、私たちは「人」の基礎を培う専門家です。

「人」は社会で生きていきます。社会で生きていくための基礎を培うのが乳幼児期の使命ともいえます。

それなのに、教育現場は、世の中の動きをよく知りません。

物価の変動くらいはわかるでしょうが、例えば、株価だったり、失業率だったり、非正規雇用の割合だったり、何が流行っていて、どういう職種があるのか。

知らないことは悪いことではないと思います。

問題は、知ろうとしないこと、ではないでしょうか。

そもそも、世の中で生きていくのが「人」なのに、世の中で生きていくための多くを学ぶ教育現場が世の中のことを知ろうとしない、というのは、大きな矛盾ですね。

何かのSNSで見た記事ですが、投稿者が学生時代の授業でいちばん学んで良かったと思えることが、「リボ払いの恐ろしさ」だったとのこと。

社会人なのに、社会保険の仕組みや厚生年金の仕組みを良く知らない等といったことも同様です。

現代は、情報社会と言われるほど、多くの情報があり、情報が多いということはそれだけ複雑化しているということです。

複雑な社会で生きていかなければならないのが「人」なわけですから、社会の仕組みなどを教える時間があってもいいと思うのですが・・・。

そういうと、決まって教育現場の人は、「学校は勉強をするところだ」と言います。

どうも「学び」についての固定概念が強いようです。

机に向かってじっと問題を解いたり、先生の言うことを一方的に注入するようなことが「学び」であると思いこんでいるようですね。

「人」を育てるのならば、教育現場の価値観だけに拘らず、世の中を見据えた多角的な価値観と視点からのものが必要不可欠であると思うのですが、なかなか難しいことなのでしょうか。

自分の考え②

2018/04/13

前回のブログに、主体的かつ自発的な活動ができるかどうかは、0歳からの教育にかかっていると書きました。

0歳からの教育と言えば、これもまた曲解&拡大解釈で、0歳から知識の注入に取り組みがちです。

そうではなく、簡単に言えば、赤ちゃんの意志をいかにくみ取るか、ということです。

赤ちゃんですから、大人の世話なしには生き延びることができません。

お世話は不可欠ですし、安全面や病気などにも気を付けないといけません。

ただし、なんでもかんでもおとながやってあげる必要はありません。

例えば、ミルクひとつにしても、最近は育児本などの普及で、目安量が記載されていますね。

しかし、あくまでも目安量であって、子どもによって量の違いはあります。

代謝も違いますから、3時間おきの子どももいれば、4時間おきの子どももいます。

1度に150cc飲む子もいれば、180cc飲む子もいる。

赤ちゃんは、自分の欲しい量がわかっていて、お腹がいっぱいになった時に口を離します。

それを「まだ150ccしか飲んでない」と無理強いするおとながいます。

離乳食時の光景も一緒で、あまり食べてないからと無理強いするおとながいます。

もったいないなぁ~と思うわけです。

なぜなら、子どもの方から自分の意志を伝えているのに、それを聞かないわけですから、せっかくの主体的な行動を制限する教育をしてしまっているからです。

子どもは自分の意思を身近なおとなに伝え、それを受容されることで信頼関係を築き、自信を身につけ、自分の考えを他者に伝えることができるようになり、他者の意見を受容していくことにもつながります。

その一番最初の段階が、ミルクの例や食事の例です。

私たち保育現場の人間は、いずれ子どもたちに身に付けてほしい力を想定して、保育に臨んでいます。

 

自分の考え

2018/04/10

日本のこれまでの教育は、「みな同じように」「おとなのいうことを聞いて」「指示通り動く」ことを大事にされてきました。

その教育方針は、昔の時代ならばよかったのですが、今の時代の教育とは言い難いですね。

DNAの解明や医療の進歩、研究の深化などにより、ヒトは同じ個体がないことが明確になった世の中です。

そんな世の中で求められるのは、「みな同じ」ことではなく、「違う者同士の協調」です。

本当に心から可哀想だなと思うのは、「みな同じ」で「指示通り」を求められたこれまでの子どもたちが社会に出たときに、大きな失敗をしてしまっていることです。

学生の間は、「みな同じ」で「指示通り」で済んでいたのが、社会に出たとたんに、「自分で考えて」「違いを認め合って協力」しなければならないのです。

いきなり「自分で考えろ」と言われても、「指示通り」と教育されてきた人間にとっては、何を判断材料にしていいか、から困ります。

しかし、これから日本が目指そうとしている教育は、「自分の意思」を持ち、「主体的かつ自発的」に動き、「違いを認め合って協調」しながら生きていける人間づくりです。

これも時代背景によるものです。

日本は人口減を迎えています。人口減は今後、加速するでしょう。少子高齢社会も加速します。

これまで同様の「みな同じ」であった場合、滅びる時も「みな一緒」になってしまいます。

ヒトの進化論的にも、多様な人材があったほうが繁栄しやすいことは明らかです。

それは役割分担ができるからです。ヒトが役割分担で繁栄してきたことも周知のものです。

それぞれが自分に見合った役割を全うできるような教育に変えていかないと、いよいよ日本もヤバイわけですね。

ただし、役割と身分階級を一緒くたにしてしまわないようにしないといけませんが。

今の日本だと、情報リテラシーにかなり乏しいので、ネット上の記事を精査もせずに鵜呑みにして、曲解したり拡大解釈したりする傾向が強いので、役割分担=差別、と騒ぎだす人が多いのでしょうか・・・。

それはさておき、これからの世の中を見据えて、日本の教育も大きな改革に取り組み始めました。

小学校でのアクティブラーニングは、子どもの主体的で自発的な活動を基礎にすすめていくものですが、就学後に主体的かつ自発的に活動できるかは、0歳児からの教育にかかっています。

睡眠障害による副次的なもの

2018/04/02

前回、睡眠障害の話に触れましたが、今回は、睡眠障害によって引き起こされる様々な症状について触れたいと思います。

たかが「睡眠」と思われがちですが、人間は眠っている間に脳を始め、胎内のあらゆる器官のリフレッシュを図ります。

熟睡できた日の朝は、気持ちがいいと感じることは、上記の機能によるものです。

睡眠の質が下がったり、時間が短すぎたりすると、このリフレッシュがうまくできずに、「疲労」が溜まっていきます。

この「疲労」も、日本人は特に、「たかが疲労」と思いがちですね。

疲れていること=頑張っていてエライ、という意識が強いですからね。

ですが、「疲労」は、様々な症状を起こし、病気を引き起こします。

脳機能が低下することはもちろんですが、貧血やめまい、手足のふるえ、だるさ、意欲低下、うつ症状、食欲不振、などといった自律神経の乱れから起こる症状も生まれます。

初期の内に対策を練れば、改善はすぐできるのですが、たいていの人は「それくらい」と思って何の対策もせずに放置します。そして、気づいた時には改善ができにくい状況に陥ってしまいます。

例えば、不登校や引きこもりなども、睡眠障害によって引き起こされることがあります。慢性疲労症候群や、ホルモンバランスの乱れによる成長阻害、衝動性、多動性、学業不振なども同様です。

風邪や感染症などと違って、例えば熱が出るなどの症状が目に見える形ではないため、ただの「なまけ」や「わがまま」と短絡的に判断されて叱責されるだけに終わってしまう症状ばかりです。

もちろん、子どもが出す症状は、多角的に原因を探ることが必要です。

すべてが安直に睡眠障害によるものとは言いきれませんが、もし、睡眠に乱れがある場合は、生活リズムの見直しをやってみる価値はあると思います。

早期に症状改善に取り組めば、余計な副次的な症状を生み出すことは避けられます。

家族全員で就寝時間を見直してみたり、照明を蛍光灯から白熱灯に変える、21時以降は外出しない、ベッドの中でスマホやタブレットを見ない、ぬるめのお湯にゆっくりつかる、などなど、少しの我慢と少しの工夫で改善ができます。

確かに、現代は、やたらと忙しなく、仕事に追われがちです。

家庭の努力だけでどうにかできる問題とも言いきれない部分がたくさんあります。

誰も完璧にはできません。

ただ、少し何かに取り組むことは可能です。その少しの取り組みで、何かが少し良くなるのなら、やってみない手はありませんよね。

睡眠障害

2018/03/01

少し前の話ですが、11月に数名の職員と「睡眠」に関する研修を受けたのですが、想像以上に子どもたちが抱える睡眠の問題は深刻なようです。

現代は、コンビニなどの24時間営業、様々な店舗の深夜営業など、ヒトの体内時計を狂わせやすい環境が多くあります。

職種が多様化している現代では、ある程度仕方がないことかもしれません。

それに加え、スマホやタブレット、PCの普及で、夜遅くまでIT機器に触れる機会も増えました。

睡眠障害は、上記の原因で起こることが多くあります。

ヒトには元々、体内時計というものがあり、地球の自転に合わせて、簡単に言えば、朝起きて夜眠る、というプログラムが生まれつき備わっています。

この体内時計が、店舗などの明るい光やIT機器が発するブルーライトで狂ってしまうわけです。

要するに、太陽光と同等の強い光を視覚することで、体の方が昼間と勘違いしてしまい、メラトニンの発生を阻害してしまうわけです。

メラトニンが阻害されると、入眠が困難になります。

夜眠れなくなることで、朝起きるのが辛くなったり、起きられなくなったり。

それが続くと睡眠障害となってしまいます。

いわゆる「昼夜逆転」の生活になってしまったり、不眠症になってしまったりするわけですが、生まれつきの夜型人間もいますし、ショートスリーパーと言われる極端に睡眠時間が短くても大丈夫、という人もいますので、一概に良し悪しの判断はできません。

ただ、多くの人が、睡眠障害になってしまったら副次的な障害を生んでしまうことは睡眠の研究によって明らかにされています。

熊本大学名誉教授であり、兵庫県の子どもの睡眠と発達医療センターに参与(元・センター長)されている三池輝久先生は、睡眠に関して長く研究されており、日本の睡眠研究の第一人者として、最近では様々なメディアで、お話をされています。(11月の研修の講師でした)

著書も多数あり、アマゾンなどで購入できますので、ご興味のある方はぜひ1冊、お手に取られてみるといいかと思います。

改革

2018/02/24

 近年の子どもを取り巻く制度の改革は目まぐるしく、次年度の4月からは、新しい保育所保育指針が施行もされます。時期を前後して、小学校の学習指導要領、幼稚園教育要領も新しくなり、教育の3本柱として、保育園、幼稚園、子ども園の指針・要領は一言一句違わないまったく同じ内容となります。その教育の3本柱が、小学校へ就学してからのアクティブラーニングへ円滑につながっていきます。

 国が抱える大きな課題のひとつである待機児童問題も、まだ解決には遠く、あの手この手で国は制度改革に取り組んでいます。

 あわせて、保育士の確保の難しさもあり、保育士の処遇を改善することで保育士確保に取り組んでもいます。

 細かいところで言えば、感染症に関して、事故防止に関して、アレルギー対応に関して、虐待防止に関して、発達障害者・児に関して、等々、様々な関連法令の制定や改定、ガイドラインの策定も行われています。

 少子化に伴い、子どもにかける目と手が増え、意識も高まってきていることの証でもありますが、同時に、これまでの子ども像とは違った、現代社会の子ども像も浮かび上がってきます。子どもは時代に即して変化していきますが、大人はその変化になかなかついていけません。これはいつの時代も同じなのかもしれませんね。

 例えば、体罰ひとつにしても、体罰や暴言を継続的に受けてきた子どもは、脳の様々な部位が萎縮し、機能低下を引き起こすことを、厚生労働省が「愛のムチゼロ作戦」と称して啓発に取り組んでいますが、いまだに体罰容認派も多く、精神論ですませようとする大人が多くいます。

 私個人は、体罰には反対です。体罰によって得るものの方が現代では少ないですから、これほど非合理的なことはありませんし、何よりも子どもの人権を無視したものですしね。私から見ると、体罰容認派のおとなの多くは、「思い通りに子どもが動かないことへ対してのいらだちや自身のストレスのはけ口」として、さも「子どものため」というずるい口実で行っているとしか思えないんですよね。

 もちろん、中には、本気で子どものためを思って手を挙げている人もいるのかもしれません。しかし、体罰容認派の人とよくよく話してみると、やはり矛盾することが多かったり、子どもよりも大人の方が優れている、との価値観が見えてきます。そして、大人の「孤独」が見えてきます。

 体罰がダメだ、ということは正しいことですが、ただ単純に体罰禁止、と騒ぐだけでなく、体罰に潜んでいる大人サイドの問題解決に取り組んでいかないと、いつまでも体罰、虐待はなくなっていかないでしょうね。

 育児に関しては、家庭によってその価値観は様々ですし、正解も不正解もないと思います。

 ただ、親がやってきたことが結果として出るのは、後々になってからです。その時に責任逃れをしない覚悟だけは、どの親にも持っていてほしいと思います。

あけましておめでとうございます

2018/01/04

新年あけましておめでとうございます。

旧年中は様々な方々に大変お世話になりました。

本年もどうぞよろしくお願い致します。

新年の訪れと共に、今年はどういった年になるのか、気になりますね。

毎年、年末になると、その年のトピックがメディア騒がせますが、今年はどんなことが起こるのでしょう。

一昔のバブル期と違い、手放しで未来に希望を持てる時代でないことは薄々感じ取れますが、先のことは誰にもわかりませんから、ちょっとの希望を持ちつつ人生を送りたいと思います。

現代はこれまでの時代の中で、一番先行きが不透明な時代に感じます。

ただ、どの時代も先行きは不透明で、その時代に暮らす人々は様々な不安や恐れなどを感じていたはずです。

大きくこれまでの時代と違うことと言えば、やはり「情報」でしょうか。

良くも悪くも情報が簡単に入手できる時代です。

役立つ情報が簡単に手に入ることは大きなメリットですが、よく検証されてもいない情報に振り回されがちな側面があることも事実問題としてあります。

そこそこ人生を歩んでいると、「知らなきゃよかった」と思うことも経験します。

なんでもかんでも知ればいいというものではなく、知らない方がいいこともあるでしょうし、知ったあとにどうするか、が大事なんでしょうね。

知り得た情報が本当に信頼に値するものなのか、拡大解釈されたものでないのか、事実なのか憶測なのか、そういった情報の分析力は、今後、私たちおとなだけでなく、子どもたちにも身に付けるべきリテラシーです。

 

集団のありかた

2017/12/06

連日のインクルージョン(inclusion)、コーヒージョン(cohesion)は、集団の形やあり方です。

その他に、イクスクルージョン(exclusion)、インテグレーション(integration)という集団の形があります。

イクスクルージョンは、年齢や障害の有無、目で見える形での様子や形で区分し、区分ごとに別々にした形です。日本における年齢別の就学や学年制度、障害児のみを集めたクラスなど、これにあたります。ちなみに、この集団の形は、多くの先進国では多大なる差別とされ、ほとんど見られません。

インテグレーションは、保育においては「統合保育」と言われる形で、年齢や障害の有無などで区分するのではなく、みんな一緒に同じように一緒にすることを前提とした集団の形です。一見、差別がないように見えますが、個々の個性や習熟度などは一切無視して、まったく同じことをやらせようとするわけですから、本来の平等の意味とはかけ離れています。まだ多くの教育現場や社会のあり方がここに近い形ではないでしょうか。

上記の2つのあり方から一歩進んだ形が、インクルージョンとなります。

個々の個性や習熟度などに応じて、基本は一緒に過ごしますが、必要に応じて、それぞれの発達や状況に応じたあり方を柔軟にとっていきます。

療育や病院受診などが必要であれば、その時は集団から抜けて自分に合った時間を過ごし、大きな集団に疲れたときは、一人でゆっくり過ごす、など、個々の状況に応じて臨機応変に集団の形が変わっていきます。

日本では、社会においても一部の企業ではいち早くこれを取り入れており、働き手の特性に応じた仕事内容で会社に貢献してもらうという形を取っている企業も増えてきています。教育現場においても、例えば、小学校の通級指導などはこれにあたりますが、まだまだ目の前の子どもの特性に応じた内容よりも、年齢の枠に目の前の子どもを当てはめようとする内容に固執したものであるのが現状です。就学前の教育現場では、療育や病院受診などのシステムは定着してきましたが、年齢で就学させなければいけないシステムに拘っていて、なかなか個々の子どもの発達に応じた教育を受ける権利が保障されていません。

そして、昨日UPしたコーヒージョンですが、これが、次年度からうちの園で目標とすべき形です。

個々の特性や価値観などに応じて、区別されることなく、自発的に子どもたちが自分の状況や発達に応じた集団を作り、個と個、集団と集団が結びついたり協力したり、時にはぶつかったりしながら、互いに妥協点を見つけ折り合いをつけ、受容していき、共に成長する、そういった集団の形です。

こういった姿を目標とするためには、まずは身近な大人がそのあり方に理解を深め、互いに補い合う姿がないといけません。同時に、子どもたちへ対して、おとなの価値観や指示で集団を作るのではなく、いかに個と個を結びつけることができるような環境を整えるか、も大事になってきます。

 

近年、赤ちゃんや子どもの泣き声を騒音という身勝手な大人が増え、中にはベビーカーに乗っている赤ちゃんを直接攻撃するようなおとなや、ベビーカーを持って電車に乗りこむことに舌打ちをしたり怒鳴ったりするおとなが増えています。

発達障害を抱える人々を、馬鹿にして自分の立場を守ろうとしたり、自分より立場の低い人間に暴言を吐いたりすることでストレス解消したりするおとなもいます。

もちろん、そういったおとなばかりではありませんが、そういったおとなが目立つようになってきたのも事実です。

個人的には、そういった対応をするおとなに何らかの精神的な疾患や発達上の課題があるような気がしますが、そういった一連のことも、そのおとながこれまでの人生で受容された経験をしてきたのかどうか、も大きく関係していると思います。

誰かを受容することを経験していない人が、いきなり受容できるわけはありませんから、ある意味、起こるべきして起こっていることとも言えそうです。

こういったおとながもっと幼いころからコーヒージョンの考え方を経験していれば、もっと違った形になったのではないでしょうか。

コーヒージョンに関しては、日本だけでなく、多くの先進国の課題でもあるようです。

人類が今後も変わらず生き残っていくためには、受容と協力は必須事項のようです。

コーヒージョン

2017/12/05

先日、インクルージョン保育に関してのブログをUPしましたが、次年度からは、タイトルのコーヒージョン保育を目標にしていきたいと思います。

これも日本ではほぼ聞かれない言葉ですが、直訳すると「凝集、密着、まとまった、協心した保育」という意味になります。

子どもの個性、人種、国籍、性差、信条、宗教、年齢、障害の有無に関係なく、すべての子どもが自分なりに子ども集団をつくり、互いに補い合いながら、時には互いにぶつかり合いながら妥協点を見つけ、協力しあっていくことを目標とするのが、コーヒージョン保育です。

様々な子どもが触れ合うことで、互いに個性を認め合い、補い合うことで、子どもは柔軟性と臨機応変さを身に付けます。また、受容の経験もします。

これらが、就学した時、その後、社会に出たときに、大きく役立ちます。

なぜならば、社会には、本当にいろんな人々がいるからです。

社会で働くおとなならばよくわかっていることですが、職場というところには、気が合う人も合わない人もいます。なんだか苦手だな、好きになれないな、という人もいます。あの人困ったな、という人もいます。本当にいろんな人がいますよね。

だからといって、簡単に仕事をやめるわけにはいかず、そういった人々ともうまく距離を取りながら生きていかないといけないわけです。

そのベースとなるのが、コーヒージョン保育になります。

この価値観を経験するのとそうでないのとでは、社会に出たときに大きな差となります。

簡単な例ですと、就職した先に、どうにも合わない人がいたり、厳しい人がいたりした場合、相手を受容しつつ、適度な距離を取りつつ、仕事に臨めばいいのですが、それがまったくできないと、大きなストレスになってしまって、どっちが正しい、間違っている、敵・味方といった簡単な図式のみで判断して、早々に退職、となってしまいます。

もちろん、世の中にはブラックといえる職場もあるわけですから、そういった職場で我慢する必要はないと思いますが、福利厚生面ではホワイトなのに、人間関係でつまづいて退職はもったいない気がしますね。

コーヒージョンの考え方は、おとなになって身に付けようと思っても、なかなか難しいものです。

何十年と生きてきて、自分なりの価値観が身についていますから、そこからシフトチェンジするのはかなり難しいことです。

だからこそ、今の世の中は、精神疾患にかかってしまう人も多いのでしょうね。

もちろん、個人の価値観の問題だけでなく、社会のあり方が人権を軽視したもので

あることにも大きな要因があるとは思いますが、今のおとなが受けてきた教育にも大きな要因があると個人的には思っています。

時代と共に人のあり方も変わります。

ですから、当然、保育のあり方も変わっていかないといけません。

これからの時代を生きていくのは、子どもたちですから。

おとなはなかなか変われませんから、おとなにとっては変化多いと疲れてしまいますし、ついていくだけで精一杯になってしまいますが、それでも生きている限りは変わるべきところは変わっていかざるを得ないですね。

そして、これからを生きていく子どもたちのことをもっと信頼し、次の世代へとつなげていくことがおとなの役割であると感じます。

そのつなげるべき価値観のひとつに、このコーヒージョンの考え方が必須ではないかと思います。

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