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園長の日記

インクルージョン

2017/12/01

うちの園の保育目標のひとつに「インクルージョン保育」というものがあります。

これは、直訳すると「包括的な保育、内包的な保育」となりますが、子どもの年齢、人種、性差、国、障害の有無などに関係なく、どんな子どもでも一人の人間としての尊厳を持ちつつ園生活を送れることを意味します。

インクルーシブな保育とも言われますが、このインクルージョンの考え方が、平成30年度4月より改定される保育所保育指針にも明記されます。

インクルージョンの考え方がはっきり明記されたのは、今回の改定が初めてです。

ようやく明記されたかぁ~と思いましたが、ちょっと注意が必要だなと思うのが、この「インクルージョン」という言葉が、障害に特化して使われがちということです。

冒頭でも記しましたが、障害の有無だけでなく、年齢や人種、性差、国などすべてにおいて、というところが見落とされがちです。

例えば、日本の場合、年齢でクラス編成をしたり、就学をきめたりしますから、厳密に言うとインクルージョンとはかけ離れています。

〇〇歳だから、これができないとおかしい。

男の子だからこうあるべきだ。

人種が違うから日本に合わせるべきだ。

こういった考え方はすべてインクルーシブな考え方ではありません。

ちなみに、今回の保育所保育指針の改定は、保育所だけのものではなく、子ども園や幼稚園など就学前教育の施設に対しての指針や学習要領と一部、まったく同じ内容になっています。

その根底には、このインクルーシブな考え方があり、就学前における教育施設では共通しての子ども観となります。

この考え方にどれほどの現場が理解を示せるかが、今後の課題となるといえます。

インクルージョン保育という言葉が、これまではほとんど通用せず、どこにいっても説明しないといけませんでした。

中には、特殊なことをやっている、とか、○○式と言われるようなメソッド的な保育方法と捉えられることも多くあり、イヤミを言われることも多くありましたが、国の指針によって、ようやく明記されるわけですから、今後、一般的な言葉になっていくことと思います。

これはなにも、嫌な思いをしたことに対してその思いが払しょくできる!という個人的なことではなく、インクルーシブな考え方が浸透することで、多くのこれまで辛い思いを抱えてきた人々の道が開けていくことにつながるということです。

先月UPしたAIにも関連しますが、今後の世の中は、めまぐるしく変化を遂げていくことが予想されます。

進化なのか退化なのか、滅亡に向かっているのか、その先はわかりませんが、AIを含む様々な技術や科学が進歩することで、人類のあり方もこれまでと同様というわけにはいかなくなってきます。

これからを生きていく子どもたちに、何を伝えていくのか、何を身に付けさせるべきなのか、そのベースとなるもののひとつに、このインクルーシブな考え方が挙げられるのではないでしょうか。

AI

2017/11/02

人工知能の発達は目覚ましく、直近では大手の銀行の人材カットが話題になりました。

AIで代用できる業務は、人ではなくAIで処理していこうというものです。

AIとはArtificial Intelligenceの略で、人工的な知能のことを言います。

近年のAI研究はこれまでにないくらい盛んで、様々な研究者が人間と同等、もしくはそれ以上の知能を人工的にコンピュータ上などで実現させようとしています。

AI研究は、今に始まったことではなく、古くから行われています。

時代の流れと共に、流行した時期が何度かありました。

しかし、現代ほど盛んで、人間の生活に入りこんだ時代はないように感じます。

AIの発達速度は、人間と比べるととてつもなく早く、指数関数的に発達していくとのこと。簡単に言えば、人間は、今が1の発達としたら来年は2、その次の年は3、に対し、AIは今が1としたら来年は2、ここまでは一緒ですが、その次の年は4となります。

ここまでですと、そんなに大差がないように感じますね。

では5年後はどうでしょうか。

人間は6ですね。AIは5年後には65536となります。10000倍です。

もうこれは人間にはどうしようもできませんね(笑)。

人間は、自分たちが便利に楽に生きていくために、AIを開発し、生活に取り入れてきました。これは今後もどんどん進んでいくことです。

人間がAIを使いこなしているように見えますが(今はまだAIは人間の道具です)、5年後10年後にはどうでしょう。人間では使いこなせないでしょうね。

時代の流れなので仕方ないことです。それを望んだのは、今の大人たちですから。

いくら初期設定で「人間の不利にならないように」との設定をしたところで、AIは自身で勝手に発達していきます。昨年は、AI同士で独自の言語を発明したといいます。

所詮機械ですから、有事の際はシャットダウンしてしまえばいいこと、と簡単に考えてしまうのはちょっと危ないですね。

シャットダウンしなければならない状況になる時には、すでに人間はAIなしでの生活はできなくなっているような気がします。つまり、簡単にシャットダウンできない状況になっているということです。

今の子どもたちが大人になる頃、社会に出る頃、今以上に世の中は変化しているでしょう。

今ある仕事が20年後にあるとは限りません。

今の大人が生きてきた時代とは大きく変わります。

これからを生きていく子どもたちに、どんな力を身に付けさせるべきなのか、これまで以上に真剣に考えるべき時が来ているのだと感じます。

 

ヘックマン

2017/09/10

乳幼児の教育に携わる人ならば、ここ数年、「ヘックマン」という名前をよく聞きます。もう一種の流行りとも言えます。(笑)

ジェームズ・J・ヘックマン氏は、2000年にノーベル経済学賞を受賞した研究者です。

その研究内容は、簡単に言うと、幼児期から40年間に渡って追跡調査を行い、幼児期の教育への介入がどれほどの経済効果を生むのか、というものです。

この研究によれば、幼児期に適切な教育環境にある子どもは40歳時点での様々なスキルが、そうでない子どもよりも高いという結果になりました。

研究対象は、就学前の低所得の家庭58世帯の子どもを対象とした「ペリー就学前プロジェクト」を受けた子どもたちです。

その子どもたちが40歳時点での、教育的効果や経済効果、逮捕者率などを数値化して表しています。そのどれもが、研究対象の子どもたちの方が、その対照グループよりもいい結果を生んでいます。

就学前の教育的介入によって、国により利益をもたらし、何よりも、本人の人生における幸福度にも関与します。

ただし。

就学前の教育的介入はどんなものでもいいかというと、そうではなく、「質の高い」ものでないといけないのです。

では、質の高い教育的介入というのは、どういった内容のものなのでしょうか。

「教育」というと、どうしても認知的なスキルばかりが取り上げられますね。

よみ・かき・さんすうに代表される、いわゆる「おべんきょう」です。

これらは一般的に認知スキルと呼ばれます。

一昔前の受験などは、この認知スキルのみあればOKでした。知識の注入でよかったわけですね。

対して、社会的なスキル、コミュニケーション能力、情緒的なスキルなどを非認知スキルと言います。

これは、社会的な常識を守れたり、他者と円滑なコミュニケーションが取れる、協力し合える力だったり、我慢できる力だったりを言います。

ヘックマンは、研究の結果、認知スキルももちろん大事だが、人生においては、それよりも非認知スキルの方が重要だと述べています。

 

ちょっと難しいので、簡単な身近な例になぞらえてみますね。

社会に出たとき、仕事や生活を行う上で、どういった力があると、長く仕事を続けられ、穏やかな生活が送れるでしょうか?

「あの人頭はいいんだけど、人と協力できないよね」

「すぐキレて話し合いにならないよね」

「高学歴なのに仕事続かないよね」

ということです。

いくら知識があっても、それを生かすことができなければ、世の中の役には立ちません。知識があっても、人と協力できなければ、孤独になるだけです。知識があっても、仕事が続かなければ、生活に困ります。

逆に、知識はそれほどなんだけど、コミュニケーション能力が高かったり、コツコツと仕事を続けることができたり、柔軟性があったりすれば、困ったときに誰かの助けを借りることができます。孤独でもありません。

どちらを選ぶかは、もちろん本人次第ではありますが、国として公的な教育となれば、やはり効果が高い方を基準とするのが当然です。

特に、日本においては、引きこもりやニートの多さ、自殺者の多さ、精神疾患を抱える人の多さなど、今回の研究結果に関係がないとはいいきれない状況が何年も右肩上がりで増え続けています。

教育のあり方を本気で見直していく時期なのではないでしょうか。

 

子どもの鬱

2017/08/01

近年は社会状況の変化等により、子どもの鬱が増えているとのこと。

特に思春期を迎えた子どもたちの鬱状態が増加傾向にあるとのことです。

鬱と言えば、今では様々な知見が出てきていて、甘えや弱さから発症するものではなく、脳の神経物質などが原因であるとのことがわかっています。

しかし、まだまだ科学後進国の日本は、鬱を甘えや弱さから来るものであると思っている大人がたくさんいます。

この時代にそれはないでしょ~・・・

と個人的には思いますが、同じ保育関係者や学校関係者などでもそう思っていらっしゃる方が結構います。

真面目で勤勉な日本の国民性も関係しているのでしょうが、精神疾患に対しての無理解が様々な不幸を呼んでいます。

自殺者数は年々右肩上がりで増えるばかりなんですけどね。

自殺すら甘えや弱さといわれる始末です。

人はそれぞれ、キャパシティが違います。

同じ事柄でも、平気な人もいれば苦しい人もいます。

これは不安や恐怖などを感じる偏桃体という脳のある部分が関係しているのですが、この偏桃体が人によって大きさが違うんですね。

偏桃体が小さい人は、不安を抱えやすいですし、恐怖も感じやすい。

この部分は、鬱にも関係があります。また、虐待を受けた子どもにも、偏桃体の変形が見られます。

生まれつき小さい人は、不安や恐怖を抱えやすいわけですから、同じ事柄でも死んでしまった方がマシだ!となるくらい辛い思いを抱えることになります。

それを甘えだとか弱いからだとかの精神論で片づけてしまうのは一体どういう了見なんでしょうね・・・。

同じように、子育てや教育に関しても、様々な科学的な根拠が出てきているのに、日本は未だに、精神論で語ります。

「愛があれば!」

これは良く聞く文言ですが、間違っているとは私も思いません。

ただし。

愛があるのは大前提の話でしょ???

ってことです。

そのうえで、子どもたち何を伝えていくのか。

その部分はあまり議論されないんですよね、不思議ですよね。

おとなが考えることを放棄しているとしか思えませんね。それだけでなく、自分を省みることを放棄しているんでしょうか。

子どもには「謝りなさい」とかすぐ言うくせにね。

もちろん、おとなだって、完璧じゃないですし、間違うこともいっぱいです。

だからこそ、子どもとは人として対等であるべきだと思います。

ちなみに、国連の子どもの権利条約では、子どもも一人の人格ある人間であることが明記されています。

日本はまだまだ子どもはおとなの所有物との考え方が残っています。

近年増加傾向にある子どもの鬱に、こういった日本のおとなの態度や考え方が関係していないわけないでしょうにね。

愛のムチ

2017/07/10

先般、厚生労働省より、「愛の鞭ゼロ作戦」のパンフレットが発行されました。

大人による体罰や暴言が、子どもの脳を萎縮・変形させてしまうという科学的な実証がもとになっています。

福井大学のこどものこころ発達研究センターにおいて、虐待を受けた子どもの脳をfMRIにて調査したところ、体罰により前頭前野が萎縮し、暴言では聴覚野が変形してしまっているとのこと。(友田明美教授)

国連においては、体罰や暴言を法的に禁止しているところは50か国以上にのぼっています。日本においては、まだ法的整備まではいっておらず、ガイドラインどまりです。

近年の脳科学や遺伝学の進歩は目覚ましく、様々なことがわかるようになってきました。その結果、これまではいわゆる「精神論」で済まされてきたことも、科学的な根拠をもとにタブーとなってしまうことも増えてきました。

子育てにおいては、誰もがイライラすることもかっとなってしまうこともありますよね。子どもにとって、おとなの体罰や暴言はよくないことだと頭では理解できていても、実際はなかなか抑えがきかずについ・・・というのが子育て世代の現状ではないでしょうか。

これまでの精神論は、そういった大人の抑えの利かなさを、自己保身や正当化するために、「子どものため」「しつけ」と称して行ってきた感は拭えません。

特に、育てにくさを感じる子どもの場合、体罰や暴言に遭う確率はどうしても高くなってしまいます。

体罰や暴言を行う大人を責めてしまうことは簡単です。

しかし、「なぜ大人が体罰や暴言をおこなってしまうか」にも目を向けることも大事なことです。

多くの場合、体罰や暴言などを行う大人が、体罰や暴言によって育てられてしまった環境が存在します。自分が育てられた環境を、そのまま行っている場合がよくあります。正しい子育ての方法を知らないわけですね。

ここで、いわゆる負のループが生まれてしまいます。

親から子へ、その子から次の世代へ、と望ましくない育児方法が伝達されてしまうわけですね。

そこを変えていくことは、時間も労力もかかります。

しかし、どこかで変えていく、断ち切ることをしなければ、いつまでたっても大人の犠牲になってしまう子どもは減ることがないですよね。

子どもに悪影響な子育てを変えていく、断ち切っていくことが、いまの大きな課題のひとつですね。

そのために、国、行政や関係機関、私たち保育所など乳幼児の教育に携わる人間は、その事実を受け止めつつ、単純に親のニーズだけを受け入れるだけではない子育て支援を充実させていくのが使命でもあります。

赤ちゃんは万能

2017/06/10

うちの園が所属している学会のひとつに「日本赤ちゃん学会」があります。

この学会は、胎児期からの赤ちゃんの発達を、様々な分野からの視点で研究していらっしゃる高名な先生方がたくさん所属されています。

数年前、この学会が主催する赤ちゃん学講座(全6回)を私も受講しましたが、とにかく目から鱗な内容ばかりでとても面白かったです。

現代は、様々な機器が開発され、胎内の赤ちゃんの様子も細かいところまでわかるようになってきています。

耳で聞く、目で見る、ということも、胎内の赤ちゃんは、実は耳からの情報を視覚にも送っていて、音を見ている、とも言えるとのこと。視覚からの情報は聴覚とも繋がっていて、耳で見るとも言えるとのこと。

大人にはイマイチぴんとこない文章ですが、胎内の赤ちゃんにはそれが当たり前の様です。

また、赤ちゃんは、すべての言語を聞き分ける力を持っているとのこと。

わかりやすい例ですと、英語のRとLの聞きわけができるそうです。また、よく聞いている言語とそうじゃない言語の聞きわけもできるそうです。

意味まで理解しているかはまた別の話ですが、どの言語でもいきていける土台は誰もが万能にもっているんですね。

生きていく中で、母国語以外の言語は不必要だと判断して削っていくわけです。

これらの他にも、歩行に関してだったり、様々な感覚に関してだったり、赤ちゃんが万能な存在であることを示す科学的な研究結果がたくさん出ています。

にもかかわらず、残念だなと思うのは、世の中で出回っている情報が、あまりにも科学的根拠に基づいていない、「売れればいい」的な情報ばかりなことですね。

むしろ、捻じ曲げているといってもいいくらい、あまりにもお粗末で短絡的な情報ばかりで溢れています。

そういう情報を目にするたびに、ますますメディアが信用ならなくなりますね。

経験するべき時期

2017/06/03

先日ニュースで、中学生が高層階からボーリングの玉を落下させて遊んでいたとの報道がありました。

事件発覚後、児童相談所等の介入があり、警察への通報もあっているようです。

「中学生にもなって・・・」というのが一般的な感想でしょう。

ほかにも、「もう中(高)学生なのに」と思うような事件は多くありますね。

確かにそこだけ切り取って見れば、誰もがそう感じて当たり前なのですが、私は「もう」というよりも、そういった事件を起こした子どもたちの乳幼児期が気になってしまいます。

ボーリングの玉を落下させた中学生たちがどのような乳幼児期を過ごしていたかは分かりませんが、その中学生たちは乳幼児期に、「上から物を落として遊ぶ」経験をきちんとしているのかな?と最初に思いました。

「上から物を落として遊ぶ」経験は、0歳児や1歳児で存分に経験すべき発達です。

「上から」でなくても、持っているものをわざと落として、その反応を確かめたり、おとしたものを拾ってもらって手渡してもらうなどの経験は、その後の数的概念やコミュニケーション能力に大きくかかわってくる経験です。

もし、その時期に、その経験をしていなかった場合、人は後からその発達を補おうとします。

ですから、0・1歳児で経験させてもらえなかった子どもは、2歳児になってから、そこでも経験させてもらえなかった子どもは3歳児や4歳児5歳児になってから、そこでもまだ経験させてもらえなかったら小学生になってから。

というように、経験すべき時期に経験していないことは、ヒトの発達上、後からその部分を補うように遡って経験しようとします。

「それなら後からでもいいじゃないか」

と思われそうですが、確かに、後からでも経験できればいいと思います。特に学習面などは、加齢と共に理解が深まることもありますし、大人になって興味が出てきてから取り組んでも十分な結果が出ることもあります。

しかし、今回取り上げた「物を落とす」経験は、後回しにしてしまったらどうでしょう?

後回しにすればするほど、その結果が甚大な被害を伴うものになってしまうのではないでしょうか。

ボーリングの玉の例ですと、もし落下地点を人が通っていたら?

その人にあたっていたら?

最悪、即死に繋がる大変なことです。

本来経験すべき0・1歳児の時期に十分に経験していれば、0・1歳児が落とすものなんてたかが知れています。被害もほとんどありません。

多少、おもちゃが壊れた、程度のことでしょう。

(もちろん、高いところから物を落とす場合は、軽いものでないといけませんが・・・)

 

このように、子どもには、経験すべき時期というものがあります。

逆に言えば、その時を逃してしまうと、後からでもいいけれど、思わぬ被害が生まれたり、時間が余計にかかってしまったりする、ということです。

最近の子どもたちを見ていると、この「経験すべき時期」はすっ飛ばして、大人にとってわかりやすい結果ばかり(文字をかける、よめるなど)を子どもたちは求められているような気がします。

ただ、これはどうも、団塊ジュニアの世代からのような気もします。

民主主義

2017/05/01

日本は民主主義国家です。

民主主義とは、人民(国民)が主権を持ち、人民の意思によって行われる政治のことを表します。

リンカーンの「人民の、人民による、人民のための政治」という有名な言葉がその特色をよく表していますので、引用されることが多いですね。

日本では、各選挙区ごとに選挙があって、地区ごとに代表者を選挙で選出して、その代表者が各地区の代表として国会などに参加して、国民のかじ取りをします。

選挙は、いわゆる多数決で決められるものです。国会においても、法案成立や重要な議事決定などは多数決で決定されます。

制度そのものに対して、どうこういう気はありませんが、どんな状況にあっても単純に多数決でスパっと決めてしまうということに対しては、疑問があります。

十分な意見の吸い上げと十分な話し合いがないことには、ただの数の暴力になりかねないと思います。

特に、何らかの障害を抱えていたり、生活苦の人々など、いわゆる社会的弱者といわれる人々の意見は、大きく取り上げられることは少ないのが現状です。

また、子どもも同様で、大人の所有物とみなされることが多いのが日本社会ですから、子どもの意見表明などはなかなか受け入れてもらえません。

少し雑な例にはなりますが、例えば子どもが雨の中遊びたいと言ったとします。大人は風邪を引くから、と止めます。持病があって雨に濡れたりすることができない子どもは仕方ないとしても、雨の中遊ばせてくれる大人が日本にどれだけいるのだろうと思うと、パーセンテージで言えば一桁でしょうね。

上記の子どもの意見を聞き入れるか否かを多数決で決めると、多くの方が「否」となるでしょうから、多数決の結果、「雨の中子どもを外で遊ばせない」となります。

しかし、数パーセントの大人は、雨の中でしか学べないことがあることに気づいていて、「可」を出しています。どちらが正しい間違っているという話ではなく、数パーセントの「可」を切り捨ててしまうのはどうかと思うわけです。

もちろん、事前に、十分な説明は必要だと思います。「風邪を引くかもしれない」ことや「服や靴がびしょぬれになってしまう」ことなどね。

ここまでで、変だな?って感じた方もいらっしゃるかもしれません。

私自身、書いていて違和感しか覚えません。

何に違和感を感じるかというと、最初の子どもの意見表明から以後、すべて「主体」が大人であることです。

雨の中遊ぶかどうか、その行為を行うのは「子ども」です。ですから、主体は子どもであるべきではないでしょうか。

遊ぶか否か、子どもたちが自分たちで意見を出しあい、話し合うべきことではないでしょうか。

身体が丈夫な子どもは、多少雨に濡れても病気になることはありません。

逆に、体が冷えてしまってすぐに発熱してしまう子どもだっています。

年齢で区分はできませんが、年中や年長児程度の発達を遂げている子どもならば、自分の身体に関しての自分なりの情報も持っています。それを生かして、自己を知り、先を見通して様々なことを決める力もあります。

子どもが主体となれば、自分の体調やがどうなのか、をもとに、話し合って遊ぶか否か、ではなく、遊ぶ子と遊ばない子に分かれるという結果が出てくるのではないかと思います。

子どもたちに選挙権はないかもしれませんが、国民としての最低限の権利は持っています。その権利は、たとえ保護者であっても侵すことができないものです。

意見を出しあって、話し合って、それでも決まらない場合、最終的に皆の同意をもっての多数決であるならば、それは民主主義といえるものだと思いますが、それらもなしに、多数決のみで白黒決着をつけるというのは、やはり違和感を覚えます。

違う意見が出たときに、どのように話しあって最適解を導き出すか、それこそが民主主義ではないでしょうか。 

2029

2017/03/31

これからを生きていく子どもたちは、それぞれに未来が待っています。

人類の歴史を紐解いていくと、人類はすさまじい進化を見せていますが、地球の歴史からすればそれはほんの少しの期間でしかありません。

これからの人類の歴史を担っていく子どもたちには、どんな未来が待っているのでしょうか。

子どもたちが大人になる頃、地球はどうなっているのでしょう。

人類はどうなっているのでしょう。

未来のことは誰にもみえません。

ある程度の予想や予測はつくものの、それはあくまでも予想や予測であって、真実ではありません。

急速に進化を遂げている人工知能や地球温暖化、IPS細胞などの再生医療や遺伝子工学などなど、人類は叡智の極みを生きている気がしますが、それでもまだすべてを解き明かしているわけではありません。

よく「脳科学的に」といった文言が見聞きされますが、ヒトの脳だって、解明されている部分はほんの数パーセント程度のものです。

これから人類が迎えていく新しい時代に対して、様々な専門家がそれぞれの専門分野からの知見を述べています。

警鐘を鳴らしている専門家もいれば、未来へ希望を持つ専門家もいます。

どちらが正しいかは、その時代になってみないとわかり得ません。

タイトルの2029は、人工知能がヒトと同程度の知性をもつと言われている年です。

2029年までに、ヒトの脳と人工知能が融合し、ヒトの脳もクラウド化できるというのです。(Google社のレイ・カーツワイル氏)

そして、2045年には、人工知能はヒトの知性を超えるといわれています。

2029年は、今の子どもたちが、ちょうど高校を卒業し、社会に出始める頃です。

その頃には、ヒトの脳に人工知能が埋め込まれ、ヒトの力がより強大になると言います。

あくまでも予測の範囲ですから、絶対にそうなるわけではありませんが、いずれにしても、人工知能の発達は、ヒトの発達とは比べ物にならないくらいの速度ですから、当たらずも遠からず、くらいには認識しておいた方がいい情報かもしれません。

ちなみに、先ほど、発達の速度について触れましたが、例えば、ヒトの発達が1⇒2⇒3・・・と順番に発達していくのに対し、人工知能は、1⇒2⇒4⇒16・・・と発達していきますから、速度は比較にならないくらいのものになります。(たとえです)

 

ヒトの脳で解明できている部分が数パーセントしかないのが現状ですが、これがAIの手にかかれば、その解析は爆発的なスピードになるのかもしれません。

それを見越しての、ヒトの脳とAIの融合なのでしょうね。

今はまだウェアラブルによってヒトとAIとは完全に融合とまではいかないもののある程度の一体化ができています。

ウェアラブルを経て、進化したものが脳内チップといった感じでしょうか。

これだけ見ると、??????となられるかもしれませんが、ウェアラブルは今では誰もが身近に持っていると思います。

例えば、スマホの歩数機能などもウェアラブルといえばそうですね。

私はブレスレット型のウェアラブルをこの数年使っていますが、それは1日の歩数と消費カロリー、睡眠時間を付けているだけで勝手に計測してくれるものです。

スマホのアプリと連動させて記録、という流れです。

これが、より進んで、スマホを立ち上げなくても、脳内チップと連動して、クラウドに保存され、見たい時に見れる、といった流れになっていくのでしょうね。

脳内チップといきなり聞くとビックリするだけですが、いきなりそこにいくわけではなく、すでに前段階は人類が使用していて、より進化した形と捉えることができると思います。

個人的にはAIとの連動には怖さがありますが、時代の流れと共に、脳内チップが当たり前の時代になっていくのかもしれません。

ヒトは年を取れば取るほど、脳が固くなり、新しいものや変化に対して恐怖を感じやすい生き物です。

2029年には私も還暦が近くなっていますし、変化や新しいものに対して怖さを感じるんでしょうね。

ただ、今の子どもたちは、まだまだ未成年。

変化にも新しいものにも柔軟に対応してくれることでしょう。

そして、新しい時代を担っていってくれることと信じています。

卒園シーズン

2017/03/24

今年度も残すところあとわずかとなりました。

毎年この季節になると、春の訪れや新年度への期待と喜びだけでなく、今年度の終わりを感じます。

毎年毎年、卒園児が園を旅立っていくわけですが、これがなんとも寂しいんですよね。

それぞれの子どもたちには未来があって、これから就学してそれぞれの人生を歩んでいくわけですから、喜ばしいことであることは間違いないのですが、いなくなってしまう寂しさは何とも言いようがありません。

一緒に過ごした時間が、卒園式のあの短い時間の中で、一気に思い出されちゃうんですよね。

特に卒園証書授与の際。

ひとりひとり名前を読み上げて渡すのですが、もう一気に走馬灯のように、それまでは忘れていたことが出てきちゃうんですから不思議です。

例年、式の直前まで、「今年は泣かない」って思うんですけどね。

入場の曲のイントロでダメですもんね(笑)。

泣かないことはもう諦めていますから、当日は、大きめのタオルハンカチ常備で臨みますけども。

保育期間が長くても短くても、それぞれの子どもにそれぞれの思い出があって、子どもと話した何気ない会話や、子どもの何気ない表情や態度、そういったものが次々と思いだされます。

卒園して、子どもたちはそれぞれの就学先へ就学し、これからも育っていきます。

今の子どもたちが大人になる頃には2029年という大きな節目を迎える頃です。

みんながおとなになる頃、世の中はどうなっているのでしょうか。

どんな職業があり、どんな生活をしているのでしょうか。

先のことは今は知ることはできませんが、それぞれの子どもたちにとって、自分なりの幸せを見つけていてほしいなと思います。

 

 

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