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園長の日記

情報

2017/03/01

現代社会では、簡単に様々な情報が入手できるようになりました。

時代と共に、家にいながら簡単に、あらゆる情報をタップひとつクリックひとつで入手できます。

情報発信のツールとしては、新聞、雑誌、テレビ、インターネット、ラジオなど、目でも耳でも情報が獲得できるようになりました。

しかし、その情報がすべて正しいものなのか、根拠のあるものなのか、は何とも言えないところです。

よくある手口が、「間違ったことは言っていないが、都合のいいように解釈したもの」をあたかも真実で、すべての情報を出しているかのように発信するやりかたです。

例えば、犯罪などが絡んでいる場合は、メディアサイドと警察サイドでの報道協定があり、すべての情報を発信してしまった場合、犯人逮捕や事件解決に不利になってしまう、もしくは2次被害が出てしまうことにもつながりますので、犯人や事件関係者しか知り得ない情報は伏せておきます。

同様に、発信してしまうと無用なパニックを起こしてしまう恐れのある情報は、あえて伏せておくこともあります。

それらの是非はおいておくとして・・・。

これら様々な情報が、あたかも真実だと思う人が多くいます。

切り取られた情報だけを鵜呑みにし、それらがすべて真実であり、世の中の常識であると考えてしまう人が少なからずいるわけです。

ですから、日本では、様々な詐欺が横行するわけですね。

例えば北欧などでは、「見聞きした情報はまず疑う」ということが徹底して教育されます。

3~4歳児から「批判」や「疑問」の教育が行われます。

これは何も、相手を疑うとか批判することではなく、「情報」そのものに対してのことです。

日本だと、そういう行為はイコール相手を疑う、批判することと捉えられがちです。

まぁ、そんなんですから、大人になっても議論できなくて当然です。

ですが、今の時代、この「情報を疑う」ということは、生きていくうえで重要なスキルだと思うわけです。

その情報が、「何を根拠にしているか」「どういった経緯のものか」「有意性のある数値や結果があるものなのか」をまずは判断しないことには、鵜呑みにして多大な損を被ってしまうこともあるわけです。

特に、日本の情報というものは、「経済ありき」で話が進むものですから、「消費者の購買意欲をどれだけ煽るか」が大きな基準になっています。

とりあえず有名大学の名誉教授あたりの名前借りておけば説得力あるだろう、くらいの根拠しかなかったりするのが現実です。

今からを生きていく子どもたちには、これら情報リテラシーをしっかり身に付けて世の中に出ていくことが望まれます。

しかし、ここで大きな問題が生じます。

日本ではまだまだ「子どもはおとなの言うことを聞くべき生き物である」という前時代的な考えの大人が多いものですから、子どもがどれだけ情報リテラシーを身につけても、大人側がそれに対応できないのです。

子どもの「それ本当?」という素敵な疑問に対し、日本の大人の多くは、「反抗的」としか捉えません。

これのどこが教育なんでしょうね?

一緒になって疑問を感じる、その根拠を一緒に考える、議論する、こういった行動につなげてこその教育ではないでしょうか。

数年前から小学校や中学校でも、情報に関しての授業が行われています。

多くは道徳の時間や課外授業などで行っているようです。

最近は、本当にいろいろな場面で感じるのですが、子どもにとって教育はなくてはならないものですが、教育が不足しているのは子ども以上におとなの様な気がします。

 

連綿と

2017/02/03

年末にとある音楽フェスに行ってきました。

10個ほどのバンドが集まってのフェスです。

主催者はハイスタンダードというバンドで、現在数ある音楽フェスの第1人者ともいうべきバンドです。

ヤフオクドームがびっしり埋まるくらいの動員数で、お昼から夜までぶっ通しのプログラムでした。お客さんは、若い人から私よりも年上の方まで様々で、親子連れの参加も多かったです。

時代と共に、流行る音楽やファッションなど、いろいろと変わっていくのが常ですが、時代の流れと共に変わるものとそうでないものがありますね。

オープニングを飾ったのは、WANIMA。

元気いっぱい夢いっぱいの若手バンドです。WANIMAの曲のとある曲の中にもハイスタンダードという名前が出てきます。

同じく、出演バンドのひとつだったMAN WITH A MISSIONのとある曲の中にも出てきます。

そうやって、若手といわれる人々が、バンドをやろうとするきっかけになるバンドがこれまでも多く存在してきました。

そして、今度は、その若手といわれる人々が、次の世代のきっかけになっていくのでしょう。

誰もが、何かを始めようとするとき、何かのきっかけが必ずあって、そのきっかけに心を動かされ、リスペクトし、熱い思いを胸に抱きます。

どんな仕事であっても、趣味であっても、それぞれの熱い思いが誰にでも胸の内に存在しています。

現代は、それを表に出すことがかっこ悪いと思われがちですし、また、何もやっていない内から妙に現実的で、早々に諦めてしまったりといった傾向が強く感じられますが、素直に表に出せない時代なんでしょうか。

もちろん、現実はそんなに甘くないですから、誰もかれもが好きなことをずっとやっていける環境ではないかもしれません。特に、好きなことでご飯を食べていく、ということは、並大抵の努力や運でできることでもないですしね。

ただ、情報化社会において、経験せずとも情報のみで早々に見切りをつけてしまう傾向は、あまりにももったいない気がします。

まずは、やってみて、そこでダメなら工夫して、ちゃんと考えて、それでもダメなら諦めたらいいと思うわけです。

そうやって時代というのは受け継がれていくわけですし、連綿とした思いも受け継がれていくわけです。

伝統文化なども同様だと思います。

時代に応じて変えていかなければいけない側面もあるでしょうが、その根っこだけは、早々変わるものではありません。

私に保育の面白さや楽しさ、素晴らしさを教えてくれたきっかけをくれたのは、とある保育園でした。その園の当時の園長先生が、今、私が師と仰いでいるわけですが、あの時の衝撃は、今でも忘れられません。

それまでは、保育園というものは(学校や幼稚園なども含め)、建前社会と思っていましたし、口ではきれいなことを言って、実際は違うんでしょ、という斜めにしか見れていませんでした。

まぁ、そこは今でも変わんないわけですけど(笑)、整合性が取れないことが大嫌いなので、そこは早々変わりませんけどね(笑)。

もちろん、完璧というのは、世の中に存在しないわけですから、多少の整合性の取れなさは仕方ないにしても、目をつぶれない矛盾は私は我慢がならないのです。

そういう厳しい斜めの私目線を、す~っとさせてくれた園でした。

あのきっかけがなかったら、私は早々に退職していたでしょうね~。

今頃は、きっと別の仕事に就いていたと思います。

まだまだその師はご健在で、日々パワフルにあちこちを飛び回っていらっしゃいますが、その思いだけは絶えさせず、連綿と次の世代へも受け継がれていってほしいと切に思う今日この頃です。

モンスター

2017/02/01

この数年、なんでもかんでも「モンスター」で片づける様な風潮がありますね。

モンスターペアレンツやらモンスター患者、モンスター老人などなど。

これらは、一般的に、「他者の状況などおかまいなしに自分の要求だけを押し付ける」人々のことを指すようです。しかも、その要求は理不尽なことばかりのようです。

確かに、先日も、歯科医師が患者に刺殺されるという痛ましい事件があったばかりです。メディアでの情報しかわかりませんから、実際にどういう経緯があったのかはわかりませんが、ニュースによれば、患者が抜歯されたことに腹を立てたとのこと。

歯科を受診する際は、「虫歯があるかもしれない」「虫歯があったら治療になるかもしれない」「治療に麻酔を使うかもしれない」「最悪、抜歯になるかもしれない」など、このあたりのことは、歯科を受診したことのある人ならば、ある程度、予想をつけることが可能な内容です。

このように、社会で生きていると、様々な「予測」や「想像力」が必要になる場面が多くあります。

スーパーへの買い物ひとつにしても、買い物リストの食材が珍しいものであれば、「買おうと思うものがないかもしれない」、夕方の時間帯であれば、「お客さんが多くて時間がかかるかもしれない」など、ある程度の想像や予測ができますよね。

もし、夕方の一番お客さんが多い時間帯に、その想像と予測ができずにスーパーに行って、支払いの際にレジに並んだ場合、「なんでこんなに待たせるんだ!」と怒り出してしまうでしょう。

想像と予測ができていないわけですからね。

そうすると、クレームをつけるわけですね。

スーパー側からすれば、なんとも理不尽な話です。ですから、どこかに張り紙をします。

「この時間帯は混雑しますよ」という内容の物です。

これらが医療機関ならばインフォームドコンセント、一般的に「説明責任」というやつです。

説明が十分行われているかどうか、をこの場合、スーパー側が問われるわけですね。

世の中にはいろんな方がいらっしゃいますから、想像も予測も不得意な方もいらっしゃいます。

そういった方々のために、説明責任が発生するわけなんですが、これも一概にはなんともいえないところですよね。

わからないなら聞けばいいこと。

怒り出す必要があるのでしょうか?

様々な合理的配慮は必要だと思います。

できない、わからない、人たちのために、社会全体が手を差し伸べることは大事です。

しかし、同時に、できない・わからない人たちに対して、「誰かに助けを求める手だて」や「他者との信頼関係」というベースを作ることも重要だと感じます。

ただ、おとなになってしまった人たちに対しては、それまでに培ってきたものがありますから、なかなか難しいのが実際のところです。

モンスター呼ばわりされる方々も、元をただせばみんな子ども時代があったわけですが、子ども時代に理不尽だと思うことが多かったのでしょうね。

その反動がおとなになってから出てきているのだろうと推測します。

学校の先生に対して保護者が理不尽なクレームをつけることも、きっとその保護者は、学生時代に嫌な思いをたくさんしたのでしょう。

だから、学校の先生に対しては信用できないのでしょうね。

まぁ、これも一概には言えませんけどね(笑)。

実際に、私が学生時代も、わけのわからない先生というのは少なからず存在していましたし・・・。

ただし。

だからといって、人を傷つけたり、殺したりは、許されることではありません。

 

なんだか、今の世の中って、過去の膿が一気にまとめて放出しちゃってる気がしますね。

そんな時代だからこそ、今からを生きていく子どもたちには、自己を知り、自己に合った生き方を模索できる基礎を培ってほしいと強く願います。

期待という名の足かせ

2017/01/30

親ならば、誰もが自分の子どもに愛情があります。

その愛情の表し方はひとそれぞれですね。愛ゆえに厳しく育てる方もいらっしゃるでしょうし、愛ゆえに甘やかして育てる方もいらっしゃいます。

厳しさも甘やかしも、どちらも子どもにとっては必要なエッセンスだと思います。

ただ、「愛情」という名のもと、おとなが自分自身の欲求を満たすために子どもを動かそうとすることは、果たして愛情と呼べるのかどうか、疑問です。

我が子がかわいいが故に、愛情がある故に、おとなは子どもに様々な期待をします。

「こういう人になってほしい」

「こういうことができるようになってほしい」

これらは子どもが生まれ、名前を付ける段階から、もしくはもっと早い時期の胎内にいるころから、おとなは色んな期待を子どもに向けます。

もちろん、愛情の反対は無関心なので、愛情があるからこそ、期待をかけるわけです。

子どもは基本的に身近なおとなが大好きですから、自分に向けられた期待にどうにかして応えようとがんばります。

目には見えなくても、子どもは必死で期待に応えようとします。

その期待が、子ども本人の欲求と発達状況に合致している場合は、とてもスムーズな発達が見られます。

しかし、おとなの期待が、子ども本人の欲求や発達状況とそぐわない過度なものである場合、子どもはうまくいかない現実と、おとなの期待とのいたばさみ状態になります。

がんばってもがんばっても、どうしようもできない現実に打ちのめされ、ストレスが溜まっていくわけです。

軽いものならば、友だちとはしゃいだり、好きなことを思い切りやったりしてうまくストレスを発散させることもできますが、素直でまっすぐな子どもほど、ストレスを発散することなく、どんどん溜め込んでいきます。

おとなの期待に応えようと頑張ることは、もちろん素晴らしいことではあるのですが、その反動で、例えば自分よりも劣っている他者を見つけいじめたり、誰かを自分よりも下に持っていこうと足を引っ張ったり。

逆に、その反動が、自己に向いた場合、1日中緊張度が高かったり、自分を卑下して自己肯定感がなくなってしまったり、最悪の場合は「ダメな自分」をどうしようもできなくなって自傷行為に走ったり。

そういった姿が見られるならば、おとなの期待には一旦ストップをかけたほうがいいのではないかと思います。

特に、今の時期、年長さんは就学を控えています。

新しい環境で、新しい生活を送らなければならないわけですから、子どもたちなりの不安や期待、様々な感情が入り乱れて、とても複雑な心理状況に陥ります。

そのため、日ごろは見せない甘えやいたずら、興奮などもよく見られるのがこの時期です。

ただでさえ、環境の変化に対して敏感になっていて、自分なりに自分の気持ちに折り合いをつけていこうともがいているこの時期に、おとなが期待をかけすぎると、子どもはそれが足かせになってしまって身動きができなくなります。

厄介なことに、こういったことは、当事者にはわからないものです。

だって必死ですからね。

必死になればなるほど、周りがみえなくなるのは人間だれしも当然のことです。

だからこそ、そのために、私たち保育者の存在があるのではないかと思います。

第三者から見れば、客観的に見ることができるわけですし、その客観的な視点で、子どものより良い育ちにつながっていくのではないでしょうか。

近年は、誰かに何か意見をされると、イコール「自分を否定された!」と取る方が多いですが、意見はあくまでも意見で、誰かの人格を否定するものでありません。

子どもを軸に、周りの大人が様々な議論をしつつ、一緒に子どもを育てていく視線が大事なのではないかと思います。

多くの目と手があることで、子どもは豊かに育っていくのではないでしょうか。

日本人は議論下手とよく言われますが、こういったところも、日本の教育の弊害のひとつなのでしょうね。

 

便利さ

2017/01/04

皆様あけましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願い致します。

毎年のことながら、年末やお正月である気分がないまま勝手に年が明けていく感覚を覚えます。

テレビでは年末の番組がありますし、外からは除夜の鐘も聞こえますし、自分で鐘を打つこともしますが、これといってお正月の気分を味わうこともなく、大掃除などで慌ただしく去っていくのが年末年始ですね。

私が子どもの頃はまだ、年末年始は世の中のお店はお休みで、新しい年を迎えるにあたっての準備がありました。年末のお買い物で食材などを買いこんでゆっくりと年越しを迎えて何をするともなしにゆっくり過ごす、というのがどの家庭でも一般的だったかと思います。

もちろん、当時でも、公的なお仕事の方はなかなか年末年始でお休みを取ることは難しかったと思います。警察官や救急の医療関係者などは、自分の休みと引き換えに、お仕事に携わっていないと、犯罪も緊急的なケガや病気も待ってはくれませんから。

ただ、商業的なお仕事は、年末年始にオープンさせる意味があるのか疑問に感じます。

少しでも売り上げを!と思う気持ちは商業においてはどこも一緒とは思います。

お客さんが困らないように、というサービス的な面からの配慮もあるかと思います。

その気持ちもわからないではないですが、行き過ぎたサービスはどうなのかと思ってしまいますね。

年末年始などの節目節目で、どこもお休みになるからこそ、前もって先の見通しを持って行動しなければいけなかったわけですが、今の世の中はそんなことをしなくても、どこかお店は必ず空いていますし、商品も豊富です。確かに便利ではありますが、生きていくうえでその便利さがあだになっているように感じます。

便利さに慣れてしまうことで、何も考えずとも予定を立てずとも、行き当たりばったりでの行動で何かを入手できるわけです。それになれていると、何かも手に入って当たり前と感じるようになりますし、待つこともできなくなります。

それだけのサービスが世の中にあふれているわけですから、仕方ないといえばそれまでですが。

ただ、人生は、そんなに自分の思い通りになるものでも、便利なものでも、行き当たりばったりでうまくいくものでもありません。

ほしいものがあったとしても、それをすぐに手に入れられるわけでもありません。

便利さを追及するあまり、自己抑制力が育ちにくくなっているのが今の世の中ですね。

確かに不便な世の中だと、何とか便利にして困っている人を助けたいと思うのが人情ですし、不便さの中では様々な弊害も出てしまいます。ですから、便利さを求めようとするのは当然のことなのですが、行き過ぎた便利さはどうも人間としての何かをゆがめてしまうように感じてしまいます。

そんな中、24時間営業を廃止したり、年始の3が日を休業しようとするグループも出てきています。今の世の中ではとても勇気のいる判断だと思いますが、個人的には賛成ですね。

一気にすべてがなくなるわけではないのですから、ないならないなりに工夫しようとしますからね、人間は。

どうも世の中のおとなは勘違いしている様ですが、今現在の豊かなモノがいつまでもあると思ってますよね。

食べ物がいつまでも育つ、採れる、獲れると思ってますよね。

人間がいつまでも地球上に存在すると思ってますよね。

世の中は諸行無常で栄枯盛衰です。

今あるものはいつかなくなります。

特に今後は、自然環境の変化は著しくなりそうですし、日本国内において言えば、人口減少は進む一方です。少子化には歯止めがかかりませんし、関連して、労働人口が減っていきます。国はその部分を移民で補おうと考えています。

目まぐるしく変わっていく世の中で、今の子どもたちがどう生きていくのか。

どうすれば生き残っていけるのか。

そういったこともいよいよ真剣に考えないといけない時期にきているのではないかと思います。

 

 

虐待

2016/12/17

一昔前までは、子どもは叩いて怒鳴って言うことを聞かせるものだという考えが多くありました。特に、福岡ではそういった考えが大多数だったように思います。

ところが、近年は、子どもへの行き過ぎた体罰や心理的な負担などは虐待と位置付けられます。

虐待の種類には、ネグレクトや心理的虐待、身体的虐待、性的虐待などの種類がありますが、ネットやメディアなどの普及により、子育て世帯だけでなく国民全体が「虐待」という言葉は広く知っていることと思います。

少子社会になるにつれ、社会から子どもの数が減り、一人の子どもに向けられる大人の「目」の絶対数は、時代を追うごとに増えていっています。そのため、虐待も発見が早くなり、児童相談所などへの通告は年々増加傾向にあります。

平成2年には、児童相談所への虐待相談は1102件でした。昨年度の虐待相談は103260件です。(共に全国208か所の児童相談所における総数。厚生労働省の発布による)

この25年でおよそ94倍にも膨れ上がったこの数値は、単純に子どもへの「目」が増えたことだけで済む話ではないような気がします。

子育て世帯の核家族化と、家族神話の崩壊、保護者世代の経験不足や子育て世代の孤立、子どもそのものを受容できない大人と社会、団塊世代の金至上主義・学歴至上主義とその被害に遭った保護者世代などなど、様々な要因が複雑に絡み合っての数値であると考えています。

どうも保護者が育ってきた環境にも要因がありそうですね。満たされない子ども時代送ったおとなは、自分がいざ親になった時、極端になりがちです。自分がされてきたことと同じことを我が子に施すか、逆に自分がされて嫌だったからまったく自分とは真逆の方法で育てていくか。

どちらがどう、ということは一概に言えませんが、もし、自分がされてきたことが、子どもの主体性や自主性を阻むようなものであったとしたら・・・。同じ方法で我が子への育児を行ったら・・・。

ここで「負の連鎖」が生じます。

もちろん、子どもはそれぞれ個性があり、性格や能力もまちまちですから、生まれつきの性格上、逆境に強い子どももいるかもしれません。(ただし、おとなを信用はしませんけどね、そういう子どもは。)スパルタで育ち、能力は高く、何らかの結果を残す子どももいることでしょう。虐待にあったとしても、それを乗り越えて、必死で生きているおとなも現にいるわけですし。

まぁ、数々の論文等では、乗り越えたつもりでも、精神疾患や愛着障害などに苦しむ、という報告が多いですけどね。

 

話を元に戻して。

虐待が虐待を生んで、また虐待を生む。何世代にも渡って、虐待が連鎖されていくわけです。

おとなは虐待のつもりは全くありません。

よくニュースなどになっている事件でも、親の側は、皆一様に言いますよね。

「しつけのつもりだった」

と。

あれはきっと本音だと思います。親は必死で、がんばって、自分なりに子どものことを考えて、愛しているわけです。(例外もありますけどね)

どこからがしつけで、どこからが虐待なのか、その線引がわからないわけです。

その線引きは、おとながするものではありません。

子どもがどう感じているか。

これが虐待かそうでないかの線引になります。

ですから、どんな状況であっても、子どもが損得勘定とか、親から見捨てられる不安とかそういったものを一切抜きにして純粋に、「自分は満たされている」「愛されている」と思えば、虐待ではないですし、逆に、「自分は蔑ろにされている」「嫌われている」と子ども自身が感じれば、虐待にあたる場合も多いということです。

この考え方が、日本人はできないし、わかろうとしない。

子どもはおとなの所有物であるとの考えが強い日本人は、過去に「家」や「自分」を守るために子どもを売りに出す、という歴史を持っています。

そんな時代から何十年何百年経過していても、未だにその考えが根っこにあるのでしょうね。

DNAに刻まれてるのかしら???

それはさておき、子どもは親の所有物という考えですから、親の言うことを聞くのが当たり前、親の都合で動かすのが当たり前、親の望む生き方をするのが当たり前。

ですから、そういった親の元で育った子どもは、基準が「モラル」とか「常識」とか「法律」ではなく、「自分の親に怒られない・気に入られる」ことになるわけです。

平成26年度から27年度にかけて、虐待相談の中でも群を抜いて増えたのが「心理的虐待」でした。併せて、警察からの通告も同様で、それぞれ1年間で1万件近く増えています。

それだけ、「子どもの人権」に目を向ける人が増えてきたことの証でもあると思います。

ちなみに、心理的虐待が増えた要因のひとつとして、家庭内での配偶者へのDVが急増していることが挙げられています。

DVも最近はほんとに多いですよね。

これまでは男性から女性へのDVがほとんどだったんですが、最近は、女性から男性へのDVも増えているとのこと。

身体的なDVはもちろん、男性へ対しての心理的なDVも増加傾向とのことです。

よくありますよね。

奥さんが旦那さんに「給料をもっと持ってこい」とかああいった言葉。

あれも立派なDVです。

旦那さんが働いていないとか仕事が続かないっていうなら話は別ですけどね。

普通に一生懸命働いて、給料もっとよこせって、そりゃあないです・・・。

言われたらツライ・・・。

逆に、旦那さんが奥さんに、「子どもと遊んでいるだけでいいんだから楽だな」とかいう自分だけが忙しい大変アピール。

育児をなめんなって話ですね。

あれも、頻度が多くて相手を見下したものであれば、モラルハラスメントというDVの一種です。

そう考えると、子どもへの虐待が増加傾向って言うのは頷ける話ですね。

だって、おとなが互いにののしり合っているんですからね。

夫婦だけでなく様々なところで、どうにかして相手を自分より下にしたいおとながたくさんいます。誰かをバカにして、揚げ足を取って、ミスを犯そうものなら集中して文句。

自分の意見を通すために、相手の意見は2の次で、間違っているのは自分以外。誰かを悪者に仕立て上げないと気が済まない。

 

ミスしたくてする人はいないでしょう?

誰もが一生懸命生きているんじゃないですか??

本当に誰か一人とか相手だけが悪者ですか????

そんな単純なものですか?????

 

そういったおとなに育てられた子どもは、どういう心理なんでしょうか。

同じようなおとなになっていくのでしょうか。

ただひとつ。

これだけは言えますが、子どもは自分を取り巻くおとなが揉めていると、まるで自分の気持ちを真っ二つにされたような気持ちになります。

夫婦喧嘩を子どもの前でしてはいけないということの理由はここにあります。

子どもの精神が不安定になってしまうからです。子どもからすれば、父親も母親もおじいちゃんもお祖母ちゃんもみんな好きですからね。

もし、家族の中の誰かを嫌い、と子どもが言う場合は、それは嫌っている人以外の家族による洗脳です。

「人を嫌う」という感情は、最初は、大人が教えて見せるものだからです。

もちろん、生きていくうえで、苦手な人だって出てきます。嫌だなって思う人も出てきます。

ですが、それを嫌いだって言っていじわるするのは人としてダメですよね。

うまく距離を取って、触れ合わないようにすればいいだけです。

距離を取ることで、それまでは見えてこなかったいい部分も見えてくるかもしれません。

 

なんだか、いつの時代も、被害に遭って嫌な思いをして、しわ寄せが行くのは子どもなんですよね。

せめてうちの園にいる間だけでも、子どもたちにはそういう思いを味わってほしくないなぁと思います。そのためにも、いくら保護者に文句を言われようと、やっぱり私たちは、子どもを主体に話を進めていくしかないわけです。

それが保育者としての仕事ですからね。

Iot

2016/11/28

IOTという言葉を最近目にするようになりました。

Internet of Thingsの略語です。

すべてがネットで繋がるという意味のIOTは、これから最も成長する分野のひとつです。

例えば身近なところですと、マイナンバー制度もこれにあたると言えます。

自分の番号を使って自分に関する様々な情報をビッグデータで管理されているわけです。

是非は問われていますが、アメリカの国防総省などは犯罪歴などもビッグデータ管理しているいるようです。

これまでは、例えば、自分の住所と名前、携帯電話番号などと預金通帳番号とクレジットカード情報、購入した物の履歴などはそれぞれが別々に自己管理していました。

自己管理を続けていくことはもちろん可能です。ですから、IOTイコールすべての情報を管理される!というわけではありませんので誤解のないように!

話を戻します。

先ほどの自己管理してきたデータの他に、病気の記録や自動車などの事故の履歴、趣味や好きな食べ物などなど、そういったものも、これまでは自己管理で、必要時に自分の頭の中から記憶などを取り出してまたは必要な書類などを取り出して対処してきました。

IOTが進むと、これらすべてをビッグデータ上で紐づけされ、便利さに拍車がかかります。

すでに商品化が検討されている例としては、冷蔵庫です。

冷蔵庫内のAIが、持ち主の趣味や嗜好、日ごろ定期的に購入する食材などをデータとして保管し、その食材が切れそうになってくると、自動的にネットを介して購入し補完してくれるというシステムです。(もちろん、商品化はまだまだ先の話ですよ)

多忙を極める方々にはとてもありがたいシステムです。

他にも、自動車などの機械類のどの部分があとどれくらいで修理が必要か、などを知らせてくれるようなものも開発が進んでいるとのこと。

便利さを追及する代わりに、自分の個人的なデータを入力などで出さないといけないわけですから、ただ便利なだけではありません。

IT系が苦手な方のためのもっと身近な紐づけの例としては、楽天やAmazonなどのページがわかりやすいですね。

何度か購入したことがある人は覚えがあると思うのですが、ページ上でいろんな類似商品をお勧めすしてくることがありませんか?

あれは、購入履歴からその人の興味があるものや好きなものをビッグデータ上で紐づけし、提供してくれているわけです。

こういった話になると、「個人情報が抜き取られる!」と心配になる方も多くいると思います。

そこで!

割と簡単に対処する方法として、何かを登録するときに、わざと生年月日をずらして入力したり、携帯電話やタブレット、PCなどの同期を解除したり、といった方法が挙げられます。

まぁ、気休め程度ですが(笑)。

これからの世の中を生きていく今の子どもたちには、このあたりも含めて情報に関するリテラシーをしっかり持っておいてもらわないといけません。

自分の身を守ることが一番の目的ですが、何よりも一度ネットにあげたものはそうそう簡単には消えないということも覚えておいてほしいことです。

先日、当園において第三者評価を受諾したのですが、その際にネットを介して匿名での利用者調査を行いました。

自由コメントの欄もあり、保護者がそれぞれ好きなように書き込みができたわけですが、ほとんどの保護者の方は園をよくするための改善点などをコメントとして残してくださり、私たちも助かることが多くあったのですが、残念ながら、ごくごく一部の特定の保護者の方が、他の保護者を非難したり、特定の職員に対する誹謗中傷を書き込んでいました。

それはそれとして、書き込んだ方は軽い気持ちでストレス解消程度に思われていたのでしょうが、例えばもし、これが訴訟問題や事件になった場合、本来は匿名のものがどの端末から書き込んだかの追跡を行われることがあります。

その時になって、コメントを消したくても、書いた本人には消すことができません。

ネットを介しての匿名であるからと油断して軽い気持ちでやったことが、取り返しのつかないことにも繋がりかねません。

子どもたちにはこういったことも、ちゃんと伝えていく必要性がありますね。

そんなつもりはなくても気づいた時には犯罪者、とならないように、先を見通し、自分の行動がどのような結果を招くのか、法に抵触する恐れはないか、など、自分の行動を一度立ち止まって考えることが、ネットでは必要不可欠になってきます。

特にこれからの時代では、IOTが当たり前になってくるわけですから、ほんのちょっとの出来心が、その後の人生に大きく影響してくる可能性も否定できません。

子どもたちが考えなしに自分の人生に傷をつけないためにも、それぞれのご家庭でも、情報に関する話を日ごろから持ってもらいたいと思います。

乳幼児期は直接的な情報に関する学習は発達上、難しいですが情報リテラシーに繋がる取り組みは行えると思います。

園でも今後、取り組んでいかなければならない課題のひとつです。

過保護と過干渉

2016/10/25

現代は、少子社会で、昔に比べてずいぶんと子どもの数が減りました。

昔は、家庭の中に多くのきょうだいがいて、父母だけでなく祖父母や曾祖父母までみんなで一緒に生活する家庭がほとんどでした。

しかし、少子社会と様々な理由により、今は核家族が多くなっています。

昔ながらの「地域」も、名称だけは残っているものの、地域活動を鬱陶しく思ったり、時間に追われて協力できなかったりと、様々な理由で「地域」のつながりもなくなりつつある、もしくはそもそもない、といったところも増えています。

それにより、今の子どもたちは、いわゆる「子ども社会」の経験がかなり希薄です。

そのうえ、少子社会によって、おとなは、子どもに目と手とお金をかけられることができるようになっています。

その分、昔は手が回らなかったことまで、おとなの手が回るようになり、過保護だったり過干渉だったりの中で子どもが育ちがちです。

確かに子どもはかわいく、おとなが守ってあげなければいけない部分もあります。

ですから、一人の子どもにできるだけ、手をかけ、目をかけ、可愛がって、甘やかして育てようとします。

ですが、子どもを甘やかすことと、受容することは、ちょっと違う気がします。

子どもは、共感してほしいとは思っていますが、おとなになんでもかんでもやってもらいたいとは思っていません。

病気をしないように、ケガをしないように、と、先回りして大人が危険をすべて取り除くことで、その時は、確かに病気もケガも回避できるかもしれません。

しかし、同時に、子ども自身に、病気に対する抵抗力やケガを回避する能力を身に付けさせないと、いつまでたっても、抵抗力もなく、ケガを回避できないままです。

病気やケガによって、直接、地球上のウイルスや雑菌を胎内に取り込むことで、抗体を作り、それらが抵抗力になっていきます。

長期的な視点で見たとき、子どもにとって必要な力とは、いったいどういうものなのでしょうか?

病気を発症しないような抵抗力や、大きなケガを回避する能力は、病気やケガを避けることで身につくわけではありません。

急がば回れ、といったことわざがあるように、本当に子どもにとって必要な力を身に付けてあげたいならば、おとなは短絡的に目の前のことだけを考えずに、長期的な視点にたっての関わりが必要なのではないでしょうか。

病気やケガだけでなく、例えば、遊びにしてもそうです。

子どもに辛い思いをしてほしくないがために、失敗しそうなことはあらかじめ排除することで、その場は失敗避けられます。

しかし、それでは、いつまでたっても、失敗をしないように先の見通しを持って自分で考えて行動することはできません。

子どもは失敗から学びます。失敗を経験することで、その時に感じた気持ちをまわりの大人に共感してもらうことで、立ち直り、次は失敗しないように気をつけるようになっていくのです。

ですが、おとながその機会を奪ってしまったら、どうでしょう?

徐々に、失敗そのものを恐れるようになり、何も行動できないようになっていきます。

こういったおとなの過保護や過干渉は、実は様々な精神疾患や発達障害と密接な関係があります。

それについてはまた別の機会に・・・。

お座敷

2016/10/17

たまに、「講師」としてお呼ばれすることがあります。

「講師」というとちょっと大それた気がしますし、「講義」とか「講演」とかなると、それもやっぱり、より一層大それた気がして、なかなか堂々と使えません。

なので、ちょっと照れ隠しも込めて、「お座敷」といったりするわけですが、今月末にもとあるお座敷があります。

今回は、島根県見守る保育研究会さんにお呼ばれされました。

2時間半程度のお座敷です。

タイトルは「乳幼児期の発達の偏りについて」です。

これまた大それたタイトルです。

内容としては、発達の偏りについての考え方や、発達障害のメカニズム、発達に偏りのあるなしに関係なく個々の子どもの発達に応じた保育をどのように展開しているかなどを、実際の環境設定を通してお話しする予定です。

発達の偏りに脳機能の話は不可欠ですので、現在いろんな文献を読み漁っています。

新しいものもあれば、何度も読んだものもあるのですが、やはりまだまだお薬などの開発に結びつく発見は乏しいです。

しかも新しい文献になれば、基本的にネイチャー誌などのメジャーで定評があり、かつ、根拠がしっかりしている論文となると、英文がほとんどですから、辞書がないと読めない上に、読むのにかなり時間がかかってしまいます。

PCなどの翻訳機能がありますが、専門用語まで正確に翻訳はしてくれませんから、なんとも厄介この上ないです。

早々に正確な翻訳機の開発を願うばかりです!(笑)切実です!

それはさておき、最近はやたらと脳科学的に~とかいう文言があっちこっちで見られます。ネット上の商品なども、「脳科学」って書いとけば売れる!信憑性がある!!って感じですね。

早期教育の知育グッズなどにもよく見られますね。

しかし、結構エセ脳科学が多いんですよ、ああいうの。

よく「右脳」「左脳」とか言いますが、専門家からすれば、右脳と左脳をわけて考えられるはずがなく、右脳も左脳も密接に結びついていて、どこかの機能だけで行動などが決まるわけではなく、一つの行動に様々な脳内の部位が関係しているんですね。

雑談のネタとしては面白いのでしょうけど、専門的な知見ではないですね。

しかも、基になっている文献のごくごく一部だけを切り取って、都合よく解釈して、さも専門家もこういってます!的な感じで宣伝するわけです。

論文かいた著者も迷惑極まりないですよね。

目にした情報が正しいのかどうかを判別するには、まずは、その情報がどの文献を参考にしているかが大事です。たいていの場合、正確な情報には、かならずその由来となった出典もとの文献が「参考文献」として但し書きが添えられています。

そして、その文献を実際に読んでみて、捻じ曲げられてないか、ご都合主義な引用がされてないか、を見極めることが大事です。

ネット上や雑誌などの「脳科学」を謳っているものの多くが、参考文献などの記載がなかったり、有名どこの脳科学者の名前だけ使っていたりしています。

その仕組みを知ってしまうと、日本の経済もエセ商品がいかに多いのかがわかります。

情報過多な現代ですから、ちゃんとしたリテラシーを持って情報には触れないと、ただ振り回されてしまうだけでになっちゃいますね。

お座敷にお呼ばれする際は、できるだけ私見は取り除いて、正しい情報だけを伝えようと心がけてはいます。そうじゃないと聞いてくれる人に対して失礼ですし、不確かな情報をさも真実であるかのように告げてしまうことは、あまりにも無責任ですしね。

私見のときは、ちゃんと私見って言いますよ、私は!

時間の関係上、あえて端折ることはありますけども。

今回の聞き役の方々は、現場の皆さんなので、できるだけ難しい言葉や専門用語は使わずにお話ししようと思います。

せっかく時間を作って聞いてくださるわけですから、少しでもお役に立ちたいですしね。

何よりも、少しずつでも、インクルージョンやそこから進化したコーヒージョンの考え方をもって保育にあたる人や園が増えてくれることがあれば、嬉しいですし、それだけ自分を受容してくれると感じられる子どもが増えることにもつながるわけですしね。

 

そうたいそうなことができるわけではないんですけどね・・・。

夢は大きく描かないとね!!!(もちろん、それに向かっての努力は大事ですけども)

人類の進化

2016/10/01

人類はすさまじい進化を遂げて現代を迎えています。

遠い過去には哺乳類も存在しなかった地球上で、他の動物に比べ種としての総数も多く、手にした文明も技術も類を見ないほどです。

かつては恐竜が地球上の覇者といわれていましたが、隕石なのか氷河期なのかが原因で、絶滅してしまいました。

哺乳類はその後、誕生し、どんどん進化して現在のヒトとなるわけですが、現在のヒトは、ホモサピエンスという種に分類されます。

ヒト型の種は、他にもネアンデルタール人やホモ・エレクトスなどの種もかつては存在していたそうです。

しかし、それらの種は絶滅してしまい、現在のホモサピエンスのみが生存しています。

絶滅したか残存したかの違いは、「協力」の有無だったそうです。

他者と協力し、互いに補い合いながら様々な困難を耐え忍び、切り抜けてきた種が、ホモサピエンスだといわれています。

つまり、協力することができた種だけが、生き残り、進化を遂げてきたのだということです。

ですから、本来、私たち現代人にも、生得的に「他者と協力する」という遺伝子が組み込まれているはずなのですが、現代社会はどうでしょう?

日本にも「おたがいさま」という言葉があるように、困ったときは互いに支え合う姿勢があったはずです。

ところが、最近は、困っている人や立場が弱い人を蔑ろにするような風潮が見聞きされますね。

逆に、「自分は弱者」だから、「他者からの恩恵に与って当然だ」というような一般的には煙たがられる態度もありますね。

なぜ、ここまで両極端なのでしょう?

どちらも譲歩すれば、互いに気持ちよく関係性が保てるはずなのに、ここまで両極端だと相容れるはずがありません。

このような状態では、協力どころか、憎み合うことにも繋がりかねません。

それだけ現代人に余裕がないのでしょうか。

自分のことだけで精いっぱい、という現代人が多いのでしょうか。

ひとりひとりは「悪い人」ではないはずなのに、ちょっとした余裕のなさが、こういった状況を生みだしてしまっているのでしょうか。

一説では、長い歴史をもつ地球上で、ホモサピエンスの時代はさほど長いものではなく、むしろまだまだ短い方で、いわゆる「社会性」そのものがまだ未発達で進化の途中であるといわれています。

今後、人類が地球上で生き残っていくために、「協力」という言葉がキーワードになるのではと思っています。

極端に言えば、それができない人類は、滅亡へ向かっていくしかないのではないでしょうか。

 

他者と協力することよりも他者と競い合い蹴落とすことを重視していた時代を生きてきた人たちが大人になり、自分の子どもにも同様のことを求め、他者を思いやったり、相手の立場になって考えたり、誰かに手を差し伸べたり、そういったことよりも、自分のことだけを優先するような教育を施されれば、それで育った子どもたちは一体どうなっていくのでしょうか?

確かに競争は大事なエッセンスだと思います。

ライバルがいることで、自分を高めようとするモチベーションにも繋がりますし、ライバルから学ぶことも多くあります。

競争することそのものを楽しみ、結果によっては達成感を味わったり、逆に敗北感を味わったりして、それを今後に生かしていくことは、人間性を深めるためにも大事なエッセンスではあると思います。

しかし、勝つためには手段を選ばないような、他者を蹴落としたり陥れたりしてまで結果に拘るとなると、話は違ってきます。

ただし、結果だけで親やまわりのオトナに判断されていれば、子どもは手段は選ばなくなるとは思います。

だってそうしないと、自分を受け入れてもらえませんからね。

どんな子どもだって、親や身近な大人には受け入れてもらいたい、認めてもらいたいと思うものです。

叱咤激励の意味でのおとなのそういう態度なら、いつか理解する日も出てくるかもしれませんが、最近の風潮ですと、子どものための叱咤激励というより、自分の体裁や世間体のために動いている大人が多い気がします。

そんな状況で、「協力」という概念なんか身につくわけないですよね。

ただ、生き方はそれぞれですし、価値観もそれぞれですから、どれが正解っていうのはないのでしょう。

自分に合った生き方をすればいいと思うんですが、他者を蔑ろにしてきた結果、孤独になったって文句は言えませんよね。

私としては、今の子どもたちに孤独になってほしくないので、できるだけ他者と協力して生きていく方法を学んでほしいと思います。

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