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2012年 7月

ごめんなさいという言葉

2012/07/11

子ども同士がケンカをしたとき、私は必ずしも「ごめんなさい」という言葉を言わせることが最終的な目標ではなくていいと思います。

どうしてケンカになったのか、互いに理由があるはずですから、互いの気持ちを聞くことや、ケンカになってしまう前にどのような対処をした方がよかったのかを考えさせることの方が重要だと思っています。

よく、「ごめんなさい」を言わせる保育者がいますよね。

私はそういう姿を見ると、なんのために言わせているんだろうと不思議に思います。

その「ごめんなさい」が子ども自らが考え、自分の悪かったところを本当に理解して発した言葉ならば、いいと思いますが、どうも多くの子どもが、「ごめんなさいと言えば終わり」と思っている気がします。

「ごめんなさいと言えば終わり」ということは、つまり、何がどう悪かったのかとかは考えずに、嫌なことを魔法の言葉で終わらせる方法をマニュアルとして覚えているだけにすぎません。

それに、往々にして、ケンカの当事者同士の子どもは、それぞれ自分の気持ちを受け止めてもらわないことには自分の行動を振り返ることはできません。

そして、自分の気持ちを十分に受け止めてくれたと子どもが感じると、必ずしもごめんなさいとかいう言葉は必要じゃなくなってくるものなんですよね。

 

確かにケンカはできるだけしない方がいいです。

ですが、ケンカを思い切りしたことない子どもが、ケンカの何がいけないのか、は一生理解できません。

そして、互いに心身ともに傷が残りにくい乳幼児期の初期だからこそ、ケンカの何がいけないのかを学ぶ期間だと思います。

その第一歩が、未満児における噛みつきや物の取り合いなどに当てはまるのだと思います。

 

いじめ

2012/07/10

皆さんテレビなどのメディアで周知のことと思いますが、ここのところ、大津市の中学生の自殺の件で、いろんなことが分かってきています。

具体的ないじめの内容や、加害者側の少年達の氏名や素行などもネット上に出回っていて、見ることもおぞましいようないじめの内容が明らかになってきています。

よくもまぁ、ここまで残酷なことができたものだと、人間の「悪」の部分を目の当たりにさせられた感じが拭えない事件です。

その現場を見たわけでもないですし、身近な話でもないので、真実がどうなのかは、私にはわかりません。

メディアによる情報が100%正しいものでもないと思っています。

ですが、あまりにも隠蔽工作の匂いがプンプンします。

被害にあった子どもが自殺する前に、まわりのおとなは何かできたはずです。

人一人の命はそんなに軽いものではないです。

人間である以上、完璧な人間はいませんし、それぞれいい所も悪いところもありますが、今回の出来事は、あまりにも常軌を逸している気がします。

 

個人的には、いじめは大嫌いです。

まぁ好きな人はいないと思いますが・・・。

いじめほど、陰湿なものってないですよね。

いじめの方法は、学ばないと知りえないものです。

じゃあ誰が教えてるかといえば、「おとな」なんですよね。

身近な例で言えば、学校などに対しての陰湿なタイプのクレーム。

これも十分いじめだと私は思っています。

学校の先生は特に、義務教育の期間に当たるので、現代ではどうしても保護者よりも立場が弱いと思われています。

それに加え、現代の保護者の世代が昔の教師に対していいイメージがないため、それに対しての復讐の意味も込められていると思います。

実際、私自身も、学生時代に「いい先生」だと思える教師にはほとんど出会っていませんから。

ですが、それをそのまま、今の時代に当てはめて、教師に必要以上にクレームをつけるのは、そのまま自分の子どもに、「自分を正当化して相手を責める」ことを学ばせている気がします。

もちろん、明らかに学校側がおかしなケースもありますから、意見をするのは必要だと思っています。

ですが、その意見の方法が、声を荒げたり、脅したり、要するに、話し合う姿勢ではなく、意見のごり押しになってしまうと、子どもはそれを学びます。

そして、「話し合う」ということは覚えません。

これはそのまま、お店などでのクレームにも当てはまりますよね。

「お金払ってるんだから」

というのは、日本人がよく使うフレーズです。

では、お金さえ払っていれば何をしてもいいんですか?

お金よりも、人としてのあり方の方が重要ではないでしょうか?

たまに見かけますが、お店などで店員さんに声を荒げて偉そうに文句たれてる悪質なおとないますよね?

悪質な場合、ああいうの見ると、ハッキリ言って周りの人は迷惑で仕方がないです。

子どもにはまず見せたくないおとなの姿です。

怒鳴らずに話すことってできないんでしょうか?

言ったモン勝ちですか?

かっこいいと思ってるんでしょうか?

自分よりも立場の弱いものへのおとなの行動は、子どもは学習するものです。

 

今回の事件は、私は個人的に、まわりのおとなが原因だと思っています。

加害者の子ども達がした行動は、人として本当に最低な行動です。

ただ、その加害者の子ども達は、ある意味、まわりのおとなの被害者でもあると思っています。

人としてしていいこと・わるいことの区別を学ぶ機会に恵まれなかったのでしょう。

まわりのおとなが原因ということは、つまり、これまでの教育の劣悪さによるものでもあると思っています。

 

 

2012/07/09

最近、1歳児さんの間で流行っているのが、玄関で他の子どもやおとなの靴を履くこと。

一般的に、自分の物と他人の物の区別がついてくる時期だと言われていますが、現場で見ていると、それはどうも違う気がします。

自分の物と他人の物の区別はちゃんとついていると思うんです。

区別がついているからこそ、他人の物に興味が出てくるのではないかと思うんですね。

というのも、自分の物だと、重さや形、匂いだったり感触だったりは自分が一番分かってるわけです。

だからこそ、他人の物に実際に触れてみることで、物の形・重さ・感触・色などなどの違いを身を持って体験しているんじゃないでしょうか。

この物の形や重さ、感触、色などの区別を体験するということは、文字や数の概念の獲得につながるんですが、子どもの興味を制止せずに満たしてあげることで、遊びや生活を通して学んでいるわけなんですよね。

おとなから見ると、この1歳児の行動は、ただ靴をぐちゃぐちゃにしていたずらしているだけのように見えるかもしれません。

ですが、1歳児さんにとっては、こんなに自然な形で文字や数の概念を身につけられる機会はないわけです。

子どもの行動には、ひとつひとつ意味があります。

おとなの勝手な思い込みで、「ただのいたずら」だと決め付けてしまうのは、すごく勿体無いことなんじゃないでしょうか。

自分の発達上、必要だから、その行動をとっているわけです。

そして、うちの園児たちのすごいなぁと思うところは、その散らかっている靴を片付けていると、それに気づいた年長さんたちが、一緒になって片付けてくれるところなんですね。

もちろん、最初のきっかけは、保育者が作ってあげないといけませんが、すぐにそれに気づいて、片付けのお手伝いをしてくれるわけです。

これはそのまま、「散らかっている物を片付ける」習慣のモデルを年長さんがやってくれることにつながります。

子どもは、身近なおとな等の環境を通して、いろんなことを身につけるのですが、少し年の離れた子どもがモデルになることほど効果的なものはないんですね。

子どもの行動を制止するのが保育ではなく、いかに先を見通して子どもを導くか、が保育なんだと改めて感じる今日この頃です。

たなばたまつり

2012/07/08

7日(土)は、夕方から恒例の「たなばたまつり」を開催しました。

今年の出店は、ヨーヨー釣り・カキ氷・じゃんけん・風船取り・魚釣り・手作りおやつ・おかしのつかみ鶏の7種類。

最後は、これまた恒例の打ち上げ花火で〆!

お天気が心配されていましたが、まつりが始まるころには雨もやみ、風も穏やかになり、無事に花火まで行うことができました。

昨年度は、用意したおもちゃなどが不足して、きてくださった皆さんにご迷惑をおかけしてしまったので、今年度は、数を昨年度よりも10‐20増やして、出店の券を始め、すべての出店の景品を250セット用意していました。

 

 

出店の券が不足するという嬉しい事態に!

不足してしまった分は、券のかわりに園長手書きの「フリーパス」を手の甲に記してもらい、出店をまわってもらいました。

毎年、小学生・中学生・高校生までもが来てくれるんですが、なかには風船取りなどの欲しい景品が用意されているところは、2度も3度もしたいと思ってくれるようで、もう1セット出店の券を購入しにきてくれる子もいます。

昨年度に続き、今年度も何人かお断りしてしまったので、本当に申し訳なく思います。

断わっちゃったみんな ごめんね!!!!

来年はもう少し数増やして待っておくから!!!

 

毎年毎年、卒園児以外にも、地域のみなさんや卒園児の友だちなどがたくさん来てくれます。

年に1度しか見れない顔もあるのですが、久々に会っていくつか言葉を交わせることがとても幸せです。

今年度は、泰幸保育園のスタッフのみなさんもたくさん来て下さり、お客様にも関わらず園長にこき使われておりました・・・。

本当にごめんね!!!!

 

大勢の方のご協力により、無事に終えられましたことを改めて感謝申し上げます。

今回、集まった売上金に関しましては、後日の保護者会役員会において寄付先を決定したいと思います。

喜怒哀楽

2012/07/07

人間の感情には、喜怒哀楽があります。

その喜怒哀楽を表すことは、人として当たり前のことだと思うのですが、おとなになってTPOをわきまえず周りに迷惑をかけてまで出してしまうのはどうかと思います。

そういう人たちは、自分の感情の表し方を、時と場所によって上手に使い分けて表現するということを学んでこなかったのでしょうね。

これは何も、本人の責任によるものではないと思います。

それまでその人が生きてきた中で、自分を正当に表現する機会を与えてもらえなかったのがガン印のひとつではないかと思うのです。

それを突き詰めると、やはり乳幼児期に突き当たる気がします。

 

子どもにももちろん、喜怒哀楽があります。

そして、その喜怒哀楽を思い切り表現することを通して、徐々にTPOをわきまえた感情表現を学んでいくものだと思います。

ですが、その学ぶ機会を最初から奪われてしまったらどうでしょう?

嬉しすぎてはしゃぐと、「うるさい」と怒られる。

頭に来て怒ると、「思いやりがない」と怒られる。

哀しくて泣いていると、「しつこい」と鬱陶しがられる。

楽しくてはしゃぐと、「興奮しすぎて落ち着きがない」とレッテルを貼られる。

こんな状態だと、子どもは自分の感情を表現すること自体が「いけないこと」だと認識し、感情を押し殺すことを学びます。

TPOをわきまえることを頭ごなしに指示する前に、子どもがそのときに感じた感情に共感することがまず最初に行うべきおとなの行動ではないでしょうか。

おとなだって同じじゃありません?

辛い時に泣いていて、かけてほしい言葉は、「辛かったね」という言葉じゃないですか?

「いつまでも泣いてても仕方ない」という正論ではないですよね。

 

自分の感情を自分自身が感じることで、他人の感情を理解することができます。

そうすることで、初めて「思いやり」の気持ちが出てくるのではないでしょうか。

子どもの喜怒哀楽を押さえつけ、感情表現を奪うことは、そのまま「他者への思いやりを持つ」機会を奪ってしまうことだと思います。

喜怒哀楽の表現の仕方を考えなければならない、ということを学ぶのが、保育園という場所の役割のひとつだと思います。

そのために、まずは喜怒哀楽を表現できる場の提供が第一のステップではないでしょうか。

心理テスト

2012/07/06

先日、ソーシャルネットワークで流行っていた心理テストです。

この文字の羅列を見て、ぱっと目に入った3つの単語が、自分の性格を表すのだそう・・・。

少し前に、色んなSNSで話題になり、「自分は○○と××と△△だった」などと言った書き込みで盛り上がったようです。

面白そうだったので、私もちょっとやってみたのですが、

「FUNNY」(おかしい・面白い)

「LOVE」(愛)

「APE」(類人猿)

の3つでした・・・。

最初の2つはいいんですよ!

問題は3つ目!!(笑

類人猿って・・・・・・・・(笑

つまりアレですね、私まだ人類になれてないんですね、ハイ。

他にどんな単語あるのかなぁっと見てみると、あるじゃないですかっ!!!

「BEAUTIFUL」

なんでコレ最初に見なかった私!!!!!??

 

みなさんもお暇なときにやってみると面白いかもですよ!

ありがたいなぁ・・・

2012/07/05

お迎えなどの保護者の方々に会った時に、このブログをいつも見てるよ!と声をかけてもらうことがあります。

その際に、

「面白い」

「いつも楽しみにしている」

等と言ったお言葉をもらえることがあるのですが、こういう声をかけて頂くと本当に嬉しくなります。

表面上は平静を保ってますが、心の中で小躍りしてます(笑。

文才がないので、なかなか上手く表現できなかったり、文法がおかしなところが多々あると思うのですが、こんなブログでも読んでくださってるかと思うと、俄然やる気になります。

本当にありがたいことです。

 

ふと

ぬか喜びしてる場合じゃないと我に返ったわけですが、ブログ数日分滞っております。

つまり、

滞っていることもばれてるわけです!!!!!

 

ばれてるぞおおおおおおおお!!!!!!

 

ですが!

ネタは仕入れています!!

今日明日で、やっとリアルタイムに追いつくはずです(笑

 

遅れがちで本当にすみません・・・

チームで行う保育2

2012/07/04

チームで保育を行う場合、気をつけていることがいくつかあります。

まず、似たようなタイプの人を同じクラスチームにしないことです。

似たタイプですと、似たような保育を行ってしまい、子どもに対する「目」も似てしまい、本来のその子の姿を見ることができなくなってしまうからです。

ですので、性格や好み、立ち振る舞いなどなど違った個性の人を同じクラスチームに配置しています。

次に、自分以外の人に対して否定的になったり排他的になったりしないこと。

互いにない部分があるわけですから、それを補い合うのがチームです。

身近なおとなが自分の苦手とするところを互いに補い合う姿も保育にとっては重要な要素になります。

子どもは身近なおとなをモデルとして、自ら発達していくものです。

完璧な人間がいないということは、イコール誰にでも足りない部分があるということです。

その足りない部分は、いくら努力したところで、なかなか身につくものではありません。

ですから、足りない部分を補おうと思えば、他人が必要になってくるのです。

他人に命令や指示で補ってもらうのでなく、互いに補い合うということを身に着けないといけないのです。

そうすることで、自然と役割分担もできてきますし、ひとりのおとな(子ども)が何もかもを抱え込まなくて済むようになります。

3番目は、他人を信じることです。

同じクラスチームの人、違うクラスチームの人、それぞれ役割が違います。

そして、それぞれの役割の人たちは、みんな真面目に保育に取り組んでいるのです。

一場面だけを切り取って、「あの先生はすぐさぼる」とか「すぐ失敗する」とか言うのではなく、そういう行動にならざるを得なかった理由が何かしらあるはずです。

誰の(子どもも)行動には、必ずその人なりの何かしらの理由があります。

その理由を聞くこともなく、頭ごなしに文句を言い合っても仕方ありません。

はっきり言って建設的ではないですよね。

他人を信じることは、自分が傷つくかもしれないとか裏切られるかもしれないという自己防衛の心理から、なかなか難しいように感じられますが、何もまるっきり何もかも信じるということでなくていいと思っています。

〇〇先生は、コレは得意だけど、アレは苦手だよね。

これだけでも十分だと思っています。

要するに、その人本来の姿を信じる、ということです。

最後は、クラスチームだけにこだわらず、園全体がチームであるという意識です。

これには、保育者も子どもも保護者も園に関係する人すべてを含みます。

クラスにはクラスの、保育者には保育者の、保護者には保護者の、子どもには子どもの、地域には地域の、それぞれの役割があります。

それぞれの役割をそれぞれが楽しくこなすことで、チームとして大きなひとつの円になっていくのだと思います。

チームで行う保育

2012/07/03

うちの園では、どのクラスにも、これまでのいわゆる「担任」という一人担任ではなく、「〇〇クラス担当」という複数の担任での保育を行っています。

これは、子どもを見る「目」を多方面からのものにするためと、一人の保育士に負担がかかりすぎたり、保護者の方々が自分にとって話しやすいスタッフを選べるようにするためです。

昔ながらの保育ですと、一人の保育士がいて、その保育士の主観だけで保育が進んでしまいます。

子どもの人数に応じての保育士配置となりますので、子どもの人数が多ければ、主の担任とそれをサポートする副担任という形で保育士を配置することもありますが、主だとか副だとかにすると、副の保育士は主の保育士に意見することはできないというのが、昔ながらの保育現場の実際でした。

また、経験が長い、勤務年数が長い人が「偉い」とされるのも保育現場にありがちなことでした。

 

保育士と言っても、子どもとの相性があります。

子どもにとって、苦手だと感じる保育士が担任になってしまうと、その子どもにとって1年間、苦痛でなりません。

保護者の皆さんにも同じことが言えますよね。

複数の担当がいることで、子どももおとなも、自分にとって話しやすく信頼関係を結びやすい保育士を選ぶことができます。

また、これが一番重要なのですが、ひとりの子どもを「見る」とき、複数の「目」があることで、多角な視点から子どもの発達を見ることができます。

例えば、A先生の前ではあまり話さない子どもがいたとします。でも、B先生には、お家でのことや家族のことを話します。今度は逆に、B先生の前では、じっとしていることが多く、あまり活発に身体を動かさないのですが、A先生とは、一緒にボール遊びや身体を使ったあそびをいっぱいします。

この子をそれぞれの先生から見ると、

A先生は、「運動能力はあるが、言語面や社会性の面はまだ未発達」

B先生は、「言語面や社会性は高いが、身体能力がまだ未発達」

となります。それもそのはずで、それぞれの先生に見せる子どもの「顔」が違うからです。

AとBの保育士が、それぞれ一人担任ですと、上記の子どもの姿で終わってしまうのですが、これがAとBの保育士が同じクラスで且つ、チームとして保育していた場合は、A先生とB先生の両方の「目」での子どもの姿となりますので、それぞれの見立てが合わさったものが、その子どもの「姿」となります。

どちらが子どもの発達をきちんと見れるかは、一目瞭然ですよね。

3歳児神話

2012/07/02

子どもは3歳までは、母親の手元で育てないと子どもに悪い影響が出る、というのが「3歳児神話」です。

これに関しては、様々な議論があちこちで繰り広げられています。

以下は、恵泉女学園大学教授である大日向 雅美先生の赤ちゃん学会HPにおける記事より抜粋したものです。

3歳児神話に関しての学生さん同士の議論の様子ですが、これに大きなヒントがある気がします。

 

『ある女子学生が、おずおずと手を上げてこう言いました。「私も女性ですが、やはり子どもが小さいときは、母親が家にいるべきだと思います。子どもってお母さんを一番求めていると思います。子どもはみんな家に帰ったとき、お母さんが家にいて欲しいと思うものです。うちは私が小さいとき、母が働いていました。とても寂しかった。あの寂しさは忘れられません。だから、私は結婚して子どもが生まれたら子どものために家にいて専業主婦として、育児に専念するつもりです」――このような発言が女子学生から出されました。
それに対してすぐに別の女子学生が手を挙げて、次のように発言しました。「それは、あなたの個人的な経験と意見ではないですか。確かにあなたはお母さんが働いていて寂しい思いをしたかもしれない。でも、なぜ自分の経験が全てだと思うのですか。自分が寂しかったからといって、なぜ子どもというものはすべてがお母さんに家にいて欲しい思うと決めつけるのですか。あなたは自分の経験をあまりに短絡的に普遍化しています」と。周りの男子学生から思わず「こわーい」というような声が漏れました。
先ほどの、「やっぱりお母さんは家にいるべきだ」と言った学生も、この元気のいい学生も、いずれもずっと半年間、私の講義を熱心に聞いてくれた学生です。おとなしそうにいう学生、元気に反論する学生、両者とも表現方法は違いますが、いずれも切羽詰った真剣な表情でした。特に、「自分の経験を一般化するな」と発言した学生は、さらに次のように言葉を続けました。「私は母が働き始めて、どんなに嬉しかったか。どんなにほっとしたかわからない」と。その学生の母親は働くことが好きな女性のようでした。しかし、子どもが生まれたら、仕事をやめて育児に専念したそうです。3歳児神話を信じたのか、それとも仕事と家庭の両立に困難があったのかはわかりませんが、そうして育児に専念した母親の思い出というと、いつもイライラしていることだったようです。家に閉じこもっているストレスを、苛立ちとして発散するだけでなく、教育熱心という形でも発散したようです。仕事も何も全て捨てて母親になったという場合にありがちな傾向ですが、その女子学生の母親もすべてのエネルギーを子どもに注入したようです。「その息苦しさといったらなかった」と彼女が述懐していました。
ところが、やがて家を新築して住宅ローンを返済する必要性を理由として母親が働きに出たそうですが、彼女は本当にほっとしたそうです。また、「子どもが『ただいま』と帰ってきたとき、母親が家にいるべきだとよくいわれるけれど、私は生き生きと働いているお母さんを見るほうがずっと楽しかった」とも言いました。』

 

子どもにとって幼少期はとても重要な時期ですし、母親という存在もとても重要な存在です。

ですから、親子の愛着関係をしっかり築くことはとても重要です。

ですが、私は量よりも質であると考えていますし、母親以外のまわりのおとなでも十分フォローできるものだと思っています。

しかも、一番大切でありながら、一番蔑ろにされがちな「個性」によって、同じ育児方法でも子どもは大きく左右されるということです。

その子どもに合った育児方法でないといけない気がしますよね。

そのことが顕著に現れているのが、上記の記事の内容ではないでしょうか。

 

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